平地村(近世)
江戸期〜明治9年の村名三河国宝飯【ほい】郡のうち三ケ根山東麓の丘陵地地名は地形による慶長6年旗本松平家信(形原松平氏)知行,元和4年同氏が大名となり形原藩領,同5年旗本松平庄右衛門清直知行(形原陣屋),延宝元年幕府領,同8年旗本松平内匠頭乗親知行,正徳2年幕府領,享保3年からは旗本桑島政周知行桑島氏の陣屋は文化年間まで当村にあり,以後竹谷村に移した村高は,慶長6年に160石余,寛永4年検地148石余(田96石余・畑51石余),「寛永高附」160石余,「元禄郷帳」150石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに151石余寛永4年検地では,反別は田8町余,畑屋敷4町余,名請人15人,うち居屋敷持11人,居屋敷数17(平地村田方畑方帳)各年代の名請人数は,延宝3年27人,元文5年46人,天明8年54人(名寄帳)文政10年には52人の名請人で,地方代官を勤める都築家が村高の32%の48石余を所有している(高改覚帳)寛政9年には家数44,うち水呑14・本百姓30,人数172,農間稼は男は薪取,女は生綿稼とある(差出控帳)天明4年より東海道藤川宿の代助郷を勤める兼山明神があり,寺院はない明治9年金平村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7360690
最終更新日:2009-03-01