ケータイ辞書JLogosロゴ 馬引村(近世)


愛知県>一宮市

 江戸期〜明治22年の村名。尾張国中島郡のうち。尾張藩領。北方代官所支配。村高は,「寛文郷帳」382石余,「天保郷帳」422石余,「旧高旧領」596石余。「寛文覚書」によれば,概高543石余,田3町余・畑44町余,ほかに給人起の田2町余・畑2町余,家数83・人数472,馬22。美濃路起宿の加助郷村。源敬様御黒印写によれば,天和6年には鳥居氏が200石給知(一宮市史本文編上)。天保12年の村絵図によれば,本田高515石余が中野惣九郎ら8人の給知,新田54石余は蔵入地。畑作物は「尾張志」によれば薯蕷を多く産した。また麦の裏作に木綿を作り,繰綿や綛糸に加工して売った。木綿を原料とする桟留縞や結城縞も織られ,織物生産の中心地の1つであった。神社は,神明・弁才天。寺院は,浄土宗大宝山法円寺・真宗大谷派荒木山善慶寺,ほかに浄土宗の観音堂(現昭音寺)があり,尼寺であったという。明治7年の戸数186,うち農業以外の職を兼ねる戸数46,うち農業兼工業は15。同13年頃の織屋11・桁数53,年間に3,260反の結城縞を産出した(尾西織物史)。明治初年から畑では藍の生産が始まり,裏作に大根を作り,切干大根に加工し出荷した。同22年日光村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7361386
最終更新日:2009-03-01




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