ケータイ辞書JLogosロゴ 三木郷(中世)


愛知県>岡崎市

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。三河国碧海郡碧海荘のうち。建武4年5月13日の高五郎兵衛尉宛高師直奉書に「碧海庄三木今⊏⊐(一色カ)一円進止之地」とあり,藤原冬房家領で,この地への横地次郎入道らの濫妨排除を命じている(堤文書/岡崎市史6)。その後当地は上乗院領となり,嘉吉元年11月の上乗院雑掌訴状案によると「碧海庄内三木郷今一色」は地頭代官島田参河守に押領されている(国立国会図書館所蔵文書/葛川明王院史料)。島田氏は美濃土岐氏支流で,矢作に居城して松平家に仕えた島田氏の先祖であろう。長享2年4月27日に蓮如が下付した本尊裏書に「参川国勝万寺門徒同国碧海郡碧海庄三木願主釈浄欽」と見え,勝鬘寺末道場がここにあった(敬円寺文書)。この道場は三河一向一揆後信州飯田に移転し,現在は御津町御馬敬円寺となっている。享禄2年10月松平長親は三木にあった大樹寺末春林寺へ5反石米10俵成を寄進している(大樹寺文書/岡崎市史6)。松平7代清康の弟康孝が三木に居城し,康孝死後はその弟の信孝が城主となった。信孝は甥の広忠を助けて功績があったが,両者は次第に対立を深め天文12年6月に広忠の三木城攻めが行われた。同年6月14日酒井正家・阿部大蔵は信孝家臣中根甚太郎・大竹源六らに知行を約束して味方に誘引している(大竹氏所蔵文書/同前)。この合戦で広忠は勝利し,8月10日に信孝旧臣内藤清政に知行100貫文を与えて「三木落居」を依頼した(内藤文書/同前)。江戸期の上三ツ木村・下三ツ木村と三木郷分村の福桶村・安藤村に相当する。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7361479
最終更新日:2009-03-01




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