ケータイ辞書JLogosロゴ 御津荘(中世)


愛知県>御津町

 室町期〜戦国期に見える荘園名。宝飯郡のうち。応永22年8月18日の御津神社棟札銘に「御津大明神」とあり(神社を中心としたる宝飯郡史),大檀那に三河守護の一色義範,代官として延永範信・沙弥明俊の名が見える。永享11年5月8日の同社棟札銘に守護一色義範,代官延永益幸,政所棟原信政・政貞の名があり,御津は守護領と考えられる(同前)。文安3年10月17日の仲仙寺鐘銘に「参川州宝飯郡御津庄」とある(古鐘銘集成)。享徳元年10月15日の御津神社鐘銘に「三川州御津庄」「当庄刺史細川兵部少輔源朝臣 大願主藤原政家」とあり,この頃細川氏の所領であった(同前)。藤原政家は細川氏被官で当荘の代官をしていた波多野氏である。大永2年9月6日の萩原神社棟札銘に「御津庄内赤根郷」と見える(神社を中心としたる宝飯郡史)。15世紀後半波多野氏が御津荘内森下を拠点に一定の勢力を持ったらしいが,もと一色氏被官であった牧野成時によって明応2年に滅ぼされ,以後御津は牧野氏の支配するところとなった。牧野氏は浄土宗大恩寺や御津神社に対して厚い保護を加えている(天文15年4月御津神社棟札銘,同22年5月13日大恩寺棟札銘/神社を中心としたる宝飯郡史)。弘治2年2月17日の大恩寺舜誉上人宛今川義元判物に「御津郷大恩寺領」として末寺7か寺と6町9反の田畠および代方18貫600文余を牧野民部丞の時のごとく安堵するとあり,永禄3年10月28日に今川氏真も同趣旨の安堵状を大恩寺鎮誉に出している(大恩寺文書/岡崎市史6)。永禄4年7月24日に野田城主菅沼定盈は松平元康から新地として「御津七ケ村」を与えられたという(譜牒余録下)。しかしこれは暫定的なもので,翌5年8月6日に元康は「御津村」の420貫文など21か所1,810貫文を同族の長沢松平康忠に与えている(譜牒余録/岡崎市史6)。江戸期の広石・灰野・金割・茂松・森下・西方・泙野【なぎの】・大草・赤根・大塚・丹野・山神の各村が含まれ,広石村がその中心地。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7361498
最終更新日:2009-03-01




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