ケータイ辞書JLogosロゴ 宮後村(近世)


愛知県>江南市

 江戸期〜明治22年の村名。丹羽郡のうち。尾張藩領。小牧代官所支配。村高は「寛文郷帳」「天保郷帳」ともに482石余,「旧高旧領」484石余。「寛文覚書」によれば,本田は概高454石余,反別は畑49町余,ほかに新田2町余・野方2町余があり,家数86・人数446,馬18。寺院は西山浄土宗安楽寺と臨済宗常蓮寺。神社は7社あり,うち井出神社は大日照りでも涸れることのない清水の南西に鎮座し,古くから信仰を受けた。また八幡社は,寛永元年蜂須賀蓬庵の勧請という。村の広さは東西4町余・南北9町半。「徇行記」によれば,南北に長い村域で,上ノ切・中ノ切・本郷に分かれ,枝郷に砂場がある。蔵入地のほか13人の給知があり,その高は429石余。畑ばかりのため専ら大豆などを作り,菅大臣縞を織り出して生計の助けとした。なお「寛文覚書」は籠作りを記すが,「徇行記」では竹細工はすでにすたれている。生田橋架直し人足,善師野宿への寄付人馬を負担し,また将軍上洛や朝鮮通信使の往来に際しては人馬を出した。明治22年旭村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7361580
最終更新日:2009-03-01




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