ケータイ辞書JLogosロゴ 三宅郷(中世)


愛知県>稲沢市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。中島郡南条のうち。正嘉2年6月3日沙弥昌吽寄進状に「中島郡南条三宅郷小棒里十坪」とある(性海寺文書/稲沢市史資料編7)。小棒里は永和2年天瑞塔領注文に「大塚〈小棒里〉」と見え(妙興寺文書/同前),また弘安5年7月浄金剛院領田畠坪付注進状にはそのほかに大墓村・塩江里・中池部里・下池部里・奈墓【なづか】里・音高里・秋野里・意比里が当郷内と見え(醍醐寺文書3/大日古),現稲沢市から佐織町を含む一帯に比定される。正中2年2月15日沙弥蓮浄は,先祖が開発し三宮熱田社を本家とする当郷内国分・溝口両村地頭職を鎌倉円覚寺に寄進した(円覚寺文書/鎌倉市史資料編2)。また延文2年7月4日の刑部左衛門時末書下によれば当郷「中池里(中池部里カ)三十坪」に熱田社御米田8反があった(張州雑志/熱田神宮史料)。「信雄分限帳」によると「ミヤケ」は織田信雄家臣橋本伊賀守道一の知行地であったが,天正18年9月14日には羽柴秀次により「三宅之郷」内220貫600文が杉浦久三郎に宛行われた(杉浦家文書/一宮市史資料編6)。南北朝期までの当郷は大塚町以西の三宅川流域の稲沢市域と平和町上三宅・中三宅・下三宅一帯に比定できるが,織豊期は平和町域のみをさすと考えられる。なお,「師守記」に見える穀倉院領三宅(三屋・三家)保は中島郡・海部【あま】郡いずれとも決めかねる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7361591
最終更新日:2009-03-01




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