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宮崎村(近世)


 江戸期~明治22年の村名...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7361598]
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角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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宮崎村(近世)

 江戸期~明治22年の村名

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

宮崎村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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宮崎村(近世)
江戸期~明治9年頃の村名津軽郡田舎庄のうち青森平野の中央部,駒込川右岸に位置する南に駒籠村がある弘前藩領村高は,「寛文高辻帳」629石余,「貞享4年検地水帳」225石余(田173石余・畑40石余・屋敷地11石余),「寛保高辻帳」629石余,「天保郷帳」189石余,「旧高旧領」254石余貞享元年には駒籠村の枝村であったという(浜館村誌)しかし,江戸期の郷帳類ではほとんど独立した一村として見える「貞享4年検地水帳」によれば,小字に「三吉(見吉)・前田・桐野沢(桐ノ沢)・蛍沢・月見野」があり(駒籠村と共通する),反別は田21町2反余・畑屋敷25町8反余(うち郷蔵屋敷もふくめて屋敷地1町4反余),このほかに開発可能地(田畑)2町8反余,空地3町7反余,永荒地(田畑)9反余,漆木4,985本が見える元禄3年には横内組に属し,村位は中(平山日記)宝暦9年改の御郡中郷村位付帳(弘前図書館蔵)でも村位は中とある当村は田地と畑地が半ばする農村で,漆木栽培も盛んであった明治4年弘前県を経て,青森県に所属明治初年の「国誌」によれば,当村は「何の頃にか廃村となり……宮崎の田地は駒込村の始末となり」というまた,同書駒込村の記事の中に,「北廃宮崎に続き〈此村も今人家なし〉」と見えているこの頃すでに当村は廃村状況にあったことがわかるなお,明治7年の県管内村名簿には一村として見えるが,のち駒籠村に合併したという印があり,同9年頃駒籠村の一部となったと思われる...

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宮崎村(近世)
江戸期~明治20年の村名村山郡のうち村山地方,山形盆地北東部,西流する白水川の下流右岸に位置する近世初期,東根【ひがしね】村の青柳五郎兵衛の開墾によって成立したという村名の由来は,東根惣鎮守若宮八幡宮の正面にあたることによるといわれる(東根町史)はじめ山形藩領,寛文8年下野宇都宮藩領,天和元年陸奥白河藩領,寛保2年幕府領,安政3年からは蝦夷地松前藩領村高は,寛永13年の領地目録(家世実紀)では401石余,享保6年の東根領覚書(東根市史資料4)では475石余,「天保郷帳」「旧高旧領」および天保13年の村山石高帳ではともに467石余寛政10年幕府領支配のために尾花沢【おばなざわ】代官所の出張陣屋が当村に設置されたしかしその後,文政2年宮崎出張陣屋は廃止された羽州街道沿いの街村として宿駅が設けられ,宮崎宿とも呼ばれた楯岡【たておか】宿の補助駅的な宿場で,宿駅業務は南隣の六田【ろくた】村と交互に勤めた鎮守は八幡神社浄土宗青竜山浄雲寺は慶長17年の創建,享保18年焼失し,その後再建された旧山形県を経て明治9年山形県に所属同11年の一覧全図では,反別67町5反余,戸数95・人口533,宮崎学校がある同11年北村山郡に所属同17年宮崎学校は東根小学校に合併同20年東根村に編入...

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宮崎村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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宮崎村(近世)
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宮崎村(近世)
江戸期~明治9年の村名玉名郡のうち玉名平野西部,菜切川支流の宮崎川上流域に位置する熊本藩領村高は,「寛永郷帳」1,248石余,「正保郷帳」も同高でうち田1,069石余・畠178石余,「天保郷帳」1,343石余「旧高旧領」654石余江戸末期までに永方村・宮崎出目村・塩屋村を各々分村したと思われる「肥後国誌」では荒尾手永に属し,高636石余,小村に鷲巣村が見え,当村のうちとして永方村・宮崎出目村を別記する同書によれば鎮徳寺跡・広福寺跡などがある文政7年の荒尾手永手鑑(山本家文書)によれば,家数79・人数283,商札7,質屋1・造酒屋1,馬51幕末の荒尾手永手鑑(関家文書)によると,高636石余,反別61町5反余氏神は宮崎御祖神社(中央大神宮)明暦3年開基の浄土真宗本願寺派光正寺があり,禅宗清源寺の寺跡に建立されたといい,境内に五輪塔2基が残る熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属同年宮野村の一部となる...

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宮崎村(近世)
江戸期~明治9年の村名備中国都宇郡のうち岡山平野中央部に位置する地名の由来は,鶴崎神社が鎮座したことによる(都窪郡誌)当社には文禄2年の年紀を持つ棟札があったとされる(備中誌)宇喜多氏の支配を経て,慶長5年庭瀬藩領,寛永5年から旗本戸川氏領村高は,「備中至宝記」780石,「天保郷帳」では帯江村枝郷とあり305石余,「備中村鑑」880石,「旧高旧領」305石余鶴崎神社は貞和6年に吉備津神社から勧請,創建された安政3年には早島表江戸積帆船の航海安全を祈願し鶴崎神社東参道に大灯籠(町重要文化財)が建てられたほか当村には宮崎天神社がある倉敷県,深津県,小田県を経て,明治8年岡山県に所属同9年早島村の一部となる...

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宮崎村(近世)
江戸期~明治8年の村名会津地方西部,只見川沿岸に位置する大沼郡のうち古くは河口郷に属したはじめ会津領,寛永20年からは南山御蔵入領大石組に属す村高は,文禄3年の蒲生高目録では669石余その後分村したと思われ「天保郷帳」「旧高旧領」ともに498石余,小名に荻付がある村名は横田山ノ内氏の家臣宮崎某が居住したことに由来するという古くから沼田街道に沿う街村化政期の家数本村37軒・荻付10軒(新編会津),天保13年の家数43軒・人数206(大石組人別家数書上帳)大悲堂は異本長帳では建治年間の建立と伝える堂内に聖観音坐像1体を安置する神社は鹿島神社明治8年の戸数45・人口254(県資料)同年板下村と合併し中川村となる...

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宮崎村(近世)
 江戸期~明治22年の村名...

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