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- 山田町(近世)とは
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山田町(近世) 江戸期~明治4年頃の町名山崎城下町11町の1つ篠の丸山の南麓に形成された段丘面の南東部に位置する天正年間竜野城主木下勝俊が公布した新町申付状により段丘面西方の山崎村と東方の山田村はともに新町を形成(播州宍粟郡誌)さらに元和元年の山崎藩成立と陣屋の設置によって城下町として整備された当町は陣屋の北東の熊鷹(角鷹)門付近から外堀にそって東へ伸び,段丘面東端付近に設けられた清水口門まで続く町場であった地子米は,寛文12年・享保15年・元治元年ともに12石余(山崎町史)神社は,崇道神社同社は京伏見の崇道神社から勧請と伝える同社は「おそうどうさん」とも呼ばれて人々に親しまれる境内には奥筋への道を示す寛政11年銘の道標が残る寺院は,元和4年開基の日蓮宗青蓮寺同寺は藩主池田輝澄の母花光院が,彼女の母親蓮葉院(徳川家康の妻)の菩提を弔うために姫路城の東方に建立した寺を当町に移したものである(播州宍粟郡誌)同寺は上寺村に寺領100石を有しているまた同寺の建てられた場所は,町場の東部を固めるという軍事的意味もあった幕末は山崎を冠称明治4年頃山崎町の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山田町(近世) 江戸期~明治4年の町名名古屋城下の1町町人町の1つ伊勢町筋の東,南北道路大津町筋のうち本重町筋から広小路筋までの間の2丁北は朝日町に隣接する通りの西側は町家で,東側は武家屋敷地この西側もはじめは慶長18年清須から移って来た諸士の住む武家屋敷であったが,万治3年の大火で武家屋敷は西新町・東新町に移転し,かわって堀切筋にあった町家を移して山田町と称したという(尾張志)町家を移して広くなった堀切筋が,広小路筋であるまた,当初蒲焼町筋以北を栄町と称したという(同前)これは栄村からの出店商売人が多かったことによるさらに,大津町筋を天冠町と呼ぶこともあった(名古屋府城志)享保年間の家数46軒半,町役銀411匁(名府予録)明治4年朝日町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山田町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は大坂三郷北組のうちもとは伊勢町と称した(初発言上候帳面写/大阪市史5)元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳による家数32軒,役数32.5,うち無役数1(年寄),年寄は島屋庄兵衛「宝暦町鑑」に「江戸ほり南側一すじ内,かい屋町通の丁,西北ばしすじより半丁東」とある明治2年西大組に所属同5年江戸堀下通1~5丁目となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」