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「和田郷(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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和田郷(中世) 南北朝期~戦国期に見える郷名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
和田郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
和田郷(中世) 鎌倉期~戦国期に見える郷名水内【みのち】郡東条荘のうち嘉暦4年3月日の鎌倉幕府下知条案に「五番五月会分……右頭,東条庄内和田郷和田三河入道」と見え,当郷の地頭は和田三河入道で,諏訪社上社五月会御頭山の頭役のうち5番右頭を命ぜられている(守矢文書/信史5)当地は和田氏の本貫地で,和田石見入道仏阿は他の3名とともに善光寺奉行人に任命されたが,文永2年11月20日に免職された(吾妻鏡)正応3年「とはずがたり」の著者二条が約半年和田石見入道宅に滞在しているその地は現在の長野市東和田の県営球場のあたりらしい南北朝期に入り,明徳3年3月日の高梨朝高言上状案に「一,水内郡和田郷并高岡等之事……彼所者,延文二年十月二十二日,忌(亡)父永高之時拝領」と見え,当郷は延文2年10月22日高梨朝高の父永高が拝領した所領とされ,幕府に安堵が申請されている(高梨文書/信史7)戦国初期成立の諏訪御符礼之古書によると,当地は文安5年・宝徳4年・長禄2年・寛正4年・同7年・文明2年・同6年・同11年・同16年・長享3年に諏訪社上社の頭役を勤めている(信叢2)天正6年の上諏訪大宮造宮清書帳でも,当郷は諏訪社上社の頭役を5貫600文負担している(同前)なお,永禄4年10月11日武田信玄は川中島の戦の忠信を賞し,長池と「和田」で200貫の地を某に宛行っているが,本文書は検討を要する(武州文書/越佐史料4)天正8年9月3日の関繁国寄進状案には「東和田村諏訪大明神」が見え(和世田神社文書/信史14),江戸期の東和田村・西和田村,現在の長野市東和田・西和田一体に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
和田郷(中世) 戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
和田郷(中世) 戦国期から見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
和田郷(中世) 鎌倉期から見える郷名男衾【おぶすま】郡のうち初見は嘉慶3年2月3日の官宣旨に,鎌倉(神奈川県)浄光明寺領として「男衾郡内和田郷」が見える(浄光明寺文書/相州古文書),次いで明徳4年3月晦日の足利氏満御教書にも当寺領として見えている(反町文書/武文)さらには応永27年12月21日の足利持氏御教書にも当寺領として見えている(浄光明寺文書/相古)現在の熊谷【くまがや】市から大里村にわたる一帯に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
和田郷(中世) 戦国期に見える郷名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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和田郷(中世) 南北朝期に見える郷名相模国高座【たかくら】郡のうち正平7年正月2日の足利尊氏充行下文(清源寺文書/県史資3上‐4120)に,「相模国和田・深見両郷」と見え,尊氏が一族の南宗継に,観応の擾乱に伴う活動に対して,勲功の賞として他の地域とともに当郷を宛行ったことが知られる戦国期の「役帳」には上和田・下和田が見える... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」