ケータイ辞書JLogosロゴ 安濃津(中世)


三重県>津市

平安末期から見える地名伊勢国安濃郡のうち阿乃津・安乃々津・安濃津御厨・津御厨・姉津・阿濃の津・津・阿野の津・阿野之津などとも書く「中右記」永長元年12月9日条に「伊勢国阿乃津民戸地震之間,為大波浪多以被損」と見え,当時すでにかなりの人家があったことがうかがわれる伊勢神宮とも早くから関係があったようで,「中右記」元永元年3月29日条に「安濃津神人」が遠江守基俊を訴えたことが見えるなお,「玉葉」寿永3年1月14日条には「永松栗真庄 安乃々津」に「虵 真虫」,「藻」が打ち寄せられたことがみえる伊勢神宮との関係では,建久3年の「皇太神宮年中行事」に三度御祭,公卿勅使,臨時奉幣使,六節会の時魚貝を進ずる例になっている神領島々の1つとしてあげられているのをはじめ,鎌倉期〜室町期には安濃津御厨が見え,常供田からの「御籾俵餅俵等」の積出し港であり,禰宜上洛の際の宿泊地でもあったまた,「安東郡専当沙汰文」によれば「五月一日安乃津市」も開かれた(群書22)安濃津御厨については,「神鳳鈔」に「御贄六九十二月,在家別」と見えるほか,建久7年4月15日の太神宮神主帖に「指寄作田畠」がなく,諸国を往反して「交易之計」を成す「安濃津御厨刀祢」が見える(神宮雑書/鎌遺842)応永年間には守護領となっていたが,応永9年に土岐頼益から神宮へ返還されている(吉田家日次記/大日料7-6)そのため享徳元年の「庁宣注文」には「津御贄〈家別二,六,九,十二月但代始斗也無庁宣〉」と見えるしかし,この御厨も文明7年9月の「内宮引付」(大日料8-8)に見えるように,戦国期には「御贄上分」の未納が目立つようになる港湾としての安濃津は日本三津の1つに数えられ,天然の良港であったという「平家物語」に平清盛が安濃津から海路熊野へ参る話があるが,平氏にも,神宮にも重要な港であった「太神宮参詣記」康永元年10月10日の記事に「この津は江めぐり,浦遙かにして」,応永31年12月の「室町殿伊勢参宮記」に「あのゝ津も近くなりぬるに,なぎさに松原のつづきたる所あり」と見え,「遠く突出した砂堤に抱擁された大規模な自然的港湾」(津市史)であったと考えられており,「太神宮参詣記」の「ゆききの船人の月に漕こえ」の句から,夜間の舟の往来もしのばれるこの港は現在の津市柳山付近に比定される文明5,12年に長野氏は「新警固」を設置し,内宮の抗議を受けている(氏経引付)しかし明応7年の地震で海中に没し,港の機能は失われた大永2年,この地を通った宗長は,「此津,十余年以来荒野となりて,四・五千軒の家・堂塔あとのみ」,「もとの津還住のあらまし事なるへし」と感想をのべている(宗長手記)その後も陸路参宮の往復等に通過する人は多く,「親元日記」文正3年3月18日条に「安濃津」,「言継卿記」弘治3年3月22日条に「阿野之津」,「貞徳他行道之覚」天正11年5月17日条に「津」が見えるまた,戦国期に入ると熊野信仰の信者組織も形成されていたと見え,文明10年10月の那智花蔵院檀那書立(米良文書)をはじめ,「津道者」「安濃津寺尾」などと見える文書が散見する室町期以後,安濃津は長野氏の統治下にあったが,永禄11年織田信長が当地へ侵攻して長野氏を攻めたその結果安濃郡は信長の支配下に入り,津城へは織田信昌が置かれた翌12年に信長が南伊勢を平定すると織田信包が津城へ入った(勢州四家記)信包は元亀2年2月に「津三郷,同岩田」に対し「諸御公事十三ケ年免許之事」など3か条の書付を出している(伊藤純太郎氏所蔵文書/大日料10-5)この後,富田氏,藤堂氏と城主は代わり,津は近世城下町として発達していくなお,津市海浜は白砂青松の佳景で歌枕として知られ,「伊勢の海あのの松原待つとても」(夫木集)と詠まれるまた「阿野の遠山」(謌枕名寄・勢陽雑記・勢陽五鈴遺響)は経ケ峰を含む津市西郊の安濃郡の山々の総称なお,安濃津の名は江戸期には単に津と呼ばれることが多くなり,明治22年の市制施行の際には公式に津市と称することになる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7362574
最終更新日:2009-03-01




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