ケータイ辞書JLogosロゴ 伊雑神戸(中世)


三重県>磯部町

 平安末期から見える神戸名。答志郡のうち。「吾妻鏡」文治元年10月15日条に「大神宮御領伊雑神戸……等所々散在武士無其故押領事,可被尋成敗由事」と見え,当神戸は武士に押領されていた。建仁元年10月28日の大神宮司庁宣によれば,築地御園検校磯部貞永が当神戸の刀禰に加えられている(神宮雑書/鎌遺1247)。「神鳳鈔」に「内宮一円不輸御領,伊雑神戸」と見え,当神戸は不輸の伊勢内宮領であった。その田数は明らかではないが,「神宮雑例集」に志摩国66戸のうちとして伊雑神戸・国崎本神戸・鵜倉神戸・慥柄【たしから】神戸などが見え,「神領目六残闕」には「伊雑神戸 粗米近年七貫,木口八依代,永享比マテ百余貫納,□升上分入物米白米二石五斗六升」と見える(神領考証)。一方,建久3年6月3日の皇太神宮年中行事の6月25日条に「志摩国答志郡伊雑村下津石根大宮柱太敷立高天原千木高知皇御麻命称辞定奉掛畏伊雑皇太神広前恐恐申給」と見える。同様の記事は同書9月25日条・12月25日条にもあり,伊雑宮の6月の祭礼に際して,当神戸内の伊雑村において柱立の神事が行われており,伊雑宮が所在する伊雑村が当神戸の中心であったと思われる。下って,南北朝期には貞和6年2月24日から27日にかけて当神戸上村の八王子社の修理が行われている(徴古文府/大日料6‐14)。「師守記」延文元年3月条に「寛仁三年造太神宮遷宮造宮使正度朝臣,東西宝殿内一宇,採用志摩国答志郡伊雑神戸杣材木,奉造畢」と見え,寛元3年の伊勢神宮の遷宮に際して,当神戸の材木が使用されたという。貞治2年2月1日の禰宜房継譲状に「□(志)摩国答志郡伊雑神戸内築地御薗事,□□賜永代譲状畢」と見え,築地御園が房継から某に譲与されており,当神戸内に築地御園の存在が知られる(二見御刀祢職譲状/日本塩業大系)。しかし,当神戸も武士の侵略を受け,応安5年正月11日の大神宮司庁宣によれば,権禰宜荒木田尚氏・同泰尚が伊雑宮・伊雑神戸に対して違乱する者を退け,これを警固するように命じられている(氏経引付)。下って,応永5年6月晦日の物部泰久置文によれば,応永4年12月28日に伊雑浦内のヘシノ瀬に遠江の船1艘が流れ寄せている(内宮引付)。これ以前,正和4年11月日の皇太神宮庁解には「志摩国伊雑御浦惣検校左衛門尉物部泰実」が見え(三国地誌),伊雑宮が南面する伊雑ノ浦の惣検校職は物部氏が世襲していたように思われる。伊雑ノ浦は一円伊勢神領であったが,応永32年国人などが神領を押領したため,同年5月28日これらの「悪輩同心之輩」に対して退治を加えるべしとの後小松帝院宣が下されている(同前)。次いで,「湖璉集」上の奥書に「于時同(応永)三十三年丙午二月十七日,於志州答志郡伊雑神戸上村花書亭」,同書の下には「于時応永卅三年丙午二月廿三日,於志州答志郡伊雑神戸福厳坊客殿客殿南面」と見える(大日料7‐2)。下って,寛正3年11月3日に磯部守次が伊雑宮御炊内人職,同年11月6日に磯部親光が当神戸の刀禰職に補任され(内宮引付),文明2年にも3月11日に岩村守次が伊雑宮職掌,同日賀茂宗次が伊雑神戸の刀禰職に補任されている(内宮引付)。また文明9年閏正月11日にも荒木田友尚が伊雑宮大内人に,同11月12日に賀茂引次が伊雑神戸刀禰職に補任されている(内宮引付)。磯部町の伊雑宮あたり。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7362756
最終更新日:2009-03-01




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