ケータイ辞書JLogosロゴ 磯部(中世)


三重県>磯部町

 南北朝期から見える地名。志摩国のうち。住民は蔵人所供御人に属し,田畠は内宮領。下之郷村南氏所蔵の正平8年4月5日付の文書に「磯部島供御人鶴王宮掌王憲」とあり,その遺跡をめぐって娘の紀幸女と増子検校太郎が相論したことが見え,蔵人所供御人年預幸徳丸は検校太郎を勝訴としているが(徴古文府/大日料6-19),この相論は同年10月にも再び生じている(同前/大日料6-20)。次に,応永5年9月日付蔵人所供御人等言上状によれば,神宮領磯部政所は「夫兵士」と称する新儀の課役を供御人に賦課し,あまつさえ供御人の身分を否定,また,島の悪党を語らい薗田五禰宜,前田慶福大夫等が乱入,住宅を焼き,供御人を追いだし,財物を奪取したので,供御人の還住と財物の返還,関係者の処罰を訴えている(東山御文庫記録/大日料7-3)。下って,応仁3年原因は不明であるが,磯部郷と北畠氏が対立,北畠氏が軍勢を発向する構えをみせたため,「磯部七郷老若中」は内宮の合力を要請している。同年,世安(土岐)氏が当郷の知行を幕府に望み,許されたため,内宮は祭主秀忠に善処を要望するとともにこれを阻止すべく京都の神宮雑掌を通じて幕府に働きかけている。他方,内宮は磯部七郷に対し,武家の支配が行われれば地下の大儀となり,拒否すれば野山にまじりあけくれ弓矢をとる仕儀となりこれも大儀であることをのべ,回避するには京都での訴訟のほかなく,最近の訴訟は「一献」料が必要であるため費用をだすよう説得している(氏経引付)。応仁3年,磯部七郷老分は伊雑宮の造替が久しく行われず荒廃していることを述べ,内宮よりの造替を要求しているが,内宮は永享遷宮以来諸別宮は皆転倒していること,磯部郷の神税は減少し在地大夫は諸役を無沙汰していることをあげ,困難な事情を説明している(同前)。なお当地からの御贄は「正領御贄」と呼ばれているが,しばしば損亡を理由に減免を申請しており(氏経神事記寛正6年11月1日条等),同7年12月25日条では氏経は,上納が御饌以後になれば「一倍沙汰」とすること,上納を怠たれば,「直納」とすることと「無沙汰百姓」の交名を注進すべきことと強い態度であたっている。なお,「志陽略志」答志郡村里条によれば,五智・沓掛・山田・上之郷・恵利原・迫間【はざま】・築地【ついじ】・穴川・下之郷の9か村を磯部九郷と称しているが,このうち沓掛・山田の両村は中世末期に上之郷から分村したものという。「内宮年中神役下行記」には「的屋職人并毎事成敗如磯部,有年魚取時者上分魚進,十分一。寄船ハ神宮与城相分」とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7362875
最終更新日:2009-03-01




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