ケータイ辞書JLogosロゴ 上野御厨(中世)


三重県>河芸町

 鎌倉期〜室町期に見える御厨名。伊勢国奄芸【あんき】郡のうち。建久3年の伊勢大神宮神領注文(神宮雑書/鎌遺614)に見える。内宮領。供祭物御贄米6石,起請(口入)米20石。給主(領家)は故源中将家。建立・奉免の子細は追って注進とあり不詳。地頭職は幕末北条氏得宗領として,貞時妻円成の知行するところであったが,没官され,建武2年建武政府より伊勢神宮に寄進されている(御鎮座伝記裏文書)。同3年後醍醐天皇綸旨によって花山院前中納言兼信が安堵をうけているが(大徳寺文書/大日古),これは故源中将家領を伝領したものであろう。なお文和2年にも兼信は後光厳天皇より安堵されている(同前)。「神鳳鈔」に35町上分米6石,口入米20石とあり,「神領納所記」には内宮政所領6貫として,もと7貫,近年6貫の注があり,享徳元年「庁宣注文」も6貫。文安5年11月5日,12月1日に荒木田氏経は「窪田・上野事」につき庁宣加判,解状に加署をしており(氏経神事記),その内容は不明であるが,長禄4年11月六禰宜守喜雑掌幸満の目安と関連があると推測される(氏経引付)。幸満目安によれば,先年,窪田・上野御厨は口入米10石につき,幸菊大夫兼繁と神官今井氏兼とが相論,兼繁が勝訴し,彼より守喜が相伝したが,氏兼末孫兼雄の違乱がやまないため,兼雄より避状をとった。しかし,程なく兼雄は神官木下式部丞を語らい,幕府奉行人飯尾下総守為数を頼み,煩いをなした。この時も勝訴となったが,同年また木下氏が権門を頼み謀計を企つと訴えている。文正2年には,関氏一族「加布土(鹿伏兔・加太)」氏が押領,口入人六禰宜守氏(守喜甥)の目安により,庁宣が下されているが(氏経神事記11月7日条),この目安・庁宣によれば「木下等」が「非分之妨」をなすとあり,木下氏の背後には加太氏らの国人たちの動きがあったことがうかがえる(氏経引付)。弘治3年3月18日山科言継は長太から2里の上野を経て,また2里,一身田に着している(言継卿記)。なお,当地の台地上には上野城があった。同城は元亀元年織田信包の築城で,のち信包は津城に転じ,兼知していたが,文禄4年分部左京亮光嘉が豊臣秀吉から1万石の知行を与えられ,上野城主となった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363091
最終更新日:2009-03-01




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