ケータイ辞書JLogosロゴ 上野村(近世)


三重県>河芸町

 江戸期〜明治22年の村名。奄芸郡のうち。はじめ上野藩領,元和5年からは紀州藩白子領。上野藩領時代は,同藩の城下町であった。城は本丸が東西30間・南北25間,二の丸が東西23間・南北32間の規模で,城下町の長さは13町であった(伊勢一国旧城跡付・河芸町郷土史)。元和5年藩主分部氏は近江国大溝に移封し,廃城となる。以後は伊勢参宮街道の宿場として発展する。村高は,「文禄3年高帳」「慶安元年郷帳」1,170石余(うち田960石余・畑205石余),「元禄郷帳」1,165石余,「天保郷帳」「旧高旧領」1,349石余。地内は北町・片町・鍛冶町・禰宜町・新田町・中町・須崎町・南町からなり,家数300余軒。本陣・脇本陣・問屋・御七里があり,宿も27軒をこえ,妓楼も7〜8軒を数えた。当時の当宿を歌ったものに「遠くに見ゆるは上野のしるべの城の松,つかれし足も先何里,遠きも近きも旅心,大きな看板,板看板,とらやまんじゅう,茶屋の香りがぷんとたち,のれんくぐれば味がする,宿場ののれんがまねく万屋か角屋,あやめ太鼓,ぎりぎり音にほだされて,後に追ふは里子たち,三味線片手のほうかい棒,あほだら経の旅ながし,いつもにぎあふくるわの華ざかり」とあり,町の繁栄の様子をうかがうことができる。なお,宿内の街道は防衛のため3か所で屈折しており,道幅は9尺であった。市場山に鶴の餌付場があり,鳥見役5人がいた。文政10年,西域大月氏国からの駱駝2頭を連れた者と当宿の者との間で争いが起き,死者も出て,当村方6名の入牢者を出した(河芸町郷土史)。天保11年,新旧地士の間で格式をめぐって争う。安政年間,尾張国海部郡から農業従事者が移住してきた。鎮守は建徳2年に伊勢国司北畠氏によって創建されたという上野八幡宮で社領5石。寺は臨済宗妙心寺派光勝寺・同宗東福寺派円光寺,真宗高田派最勝寺・満流寺,ほかに光福寺・西楽寺・願応寺・天台宗季旭寺・薬師堂がある(同前)。光勝寺は慶長6年分部氏から50石,紀州藩からは4石余の寺領を免許。円光寺は元亀年間栗間中山の地から移されたといわれ,分部氏時代には寺領100石,紀州藩からは24石の寺領を与えられる。最勝寺は明応2年,満流寺は寛永6年の草創という。寺子屋は光勝寺・円光寺などにあった(上野小学校百年のあゆみ)。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同年の戸数340(各区戸長副戸長総代名簿)。同8年上野小学校が開校,教師2,生徒数男63・女41。同17年荘敬学校,同20年上野尋常小学校となる。同22年上野村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363092
最終更新日:2009-03-01




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