ケータイ辞書JLogosロゴ 内保村(古代)


三重県>阿山町

 平安期から見える村名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。内保荘とも見える。保安4年9月12日明法博士勘状案(東大寺文書/平遺1998)に引かれている東大寺所進証文の1つ,昌泰2年12月3日在地国郡証判状に「庄家弐区在伊賀国阿部郡川合郷 一処字玉滝庄 一処字内保庄 所領墾田壱拾町壱段参佰参拾陸歩」とある。この荘家墾田の中には公田や他人領田はなく,四至は「限東高枌 限南黒谷 限西真木川 限北国堺」とされている。この四至は天徳2年11月28日に橘元実が平時光に沽与した杣ならびに田地の四至と同じであり,本来は橘氏が獲得した所領であったと考えられる。平時光に売却した時,元実が保留した墓所杣が同2年12月10日に東大寺に施入されるが,東大寺は墓所杣の領有をてこに,元来元実の有した内保をも含めて,玉滝杣としてその領有を実現したのであろうか。久安5年6月13日伊賀国目代中原利宗・東大寺僧覚仁重問注記(京都大学所蔵東大寺文書/平遺2666)において,東大寺は玉滝杣内の「開発田為寺領之条,鞆田・湯船・玉滝・内保・真木山等,皆是也」と主張しており,治承5年6月3日東大寺伊賀国封米支配状(谷森文書/平遺3965)には,北杣(玉滝杣)分141石5斗の内に,「内保村十五石」が見えており,封米15石が内保村に便補されていたことが知られる。玉滝杣内の内保村・玉滝村等の田地をめぐって東大寺・国司の争いが平安期を通じて続き,養和元年8月18日後白河院庁公文書問注記案(東大寺文書/平遺3998)によれば,寺側は玉滝・内保村などが天平勅施入内の寺領とするのに対し,国司は寺家所進の天平官符では地2町・墾田7町1反にすぎず,このほかは国領であるとして,東大寺の押領と論じている。養和年間と推定される伊賀国玉滝荘黒田荘文書目録(東大寺文書・根津美術館所蔵文書/平遺4001)からは,天延年間以降,内保村は玉滝村などとともに,東大寺華厳宗本院の尊勝院が領家として正税などの得分権を持ち,文書も尊勝院が保管していたことが知られる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363178
最終更新日:2009-03-01




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