ケータイ辞書JLogosロゴ 内保村(中世)


三重県>阿山町

 鎌倉期から見える村名。阿拝郡のうち。内保荘ともいう。鎌倉期にはいっても,東大寺と国司との間で北杣各村の田地領有をめぐって相論が続く。建仁元年7月記録所勘状案によれば,東大寺は内保村は玉滝村・湯船村などとともに「山内之本庄」であり,数百年来の寺領であると主張しており,鎌倉初期にはその主張通り支配が確立したと思われる(東大寺文書/鎌遺1236)。建保2年5月日東大寺領諸荘田数所当注進状(東大寺要録/鎌遺2107)には,「内保村十町,近来所下八石寺升定」とあり,玉滝・湯船村などとともに,勅施入北杣内の村として東大寺の封米が課せられており,杣工食料が募られ,修理材木が採進されている。嘉禄元年10月26日の北伊賀御油神人定文によれば,内保を含む北伊賀の東大寺領5か所に,鎮守八幡宮神人が定置かれ,御油役を勤仕することになるが(三国地誌/鎌遺3424),同3年9月3日の内保荘神人注文によれば,八幡宮神人の数は2名であったことが知られる(百巻本東大寺文書/鎌遺3661)。この頃から,東大寺領北杣(玉滝杣)内5か村は,それぞれ荘名で呼ばれるようになり,宝治3年3月25日伊賀北杣五荘百姓神人等連署申状(百巻本東大寺文書/鎌遺7058)では,玉滝・鞆田・湯船・槇山各荘とともに内保荘が見えている。また正応3年2月22日東大寺年預所内保荘貞宗名名主職充行状案によって,荘内が名編成されていたことが知られる。この北杣五か荘は,往古より「一味之約諾」を成してきたが,「近江国池原竜法師并村百姓」等が,内保荘百姓等を打擲・刃傷し,八幡宮神人の所持物を奪取した時に他荘が内保荘に与同しなかったため,東大寺年預所が文保元年12月に下知したところ,同月23日付の鞆田荘公文の書状をもって鞆田荘は同荘がかつて河合荘と境相論を行った際,神人が殺害されたために他荘へ与同を催促したのに対し,内保荘などは与同しなかったためだと返事している。鎌倉末期には北杣五か荘の結合は,弛緩してきていたと考えられる。また当時五か荘のうち,内保・湯船両荘は東南院に,他の3荘は尊勝院に付けられていた。嘉暦2年4月24日の東大寺年預五師頼昭書状案によれば,同年には,伊賀国千戸別所住人左近入道蓮日・子息彦三郎などによって,内保荘は1宇も残さず民家を焼き払われたという。同年11月6日東大寺満寺衆議事書案によれば,近江国池原杣内柑子村地頭代延命五郎および伊賀国河合荘住人清見入道以下の悪党が内保荘内に打ち入り,土民を追放し,東大寺が差し下した神人をも刃傷したといわれており,内保荘と周辺の諸荘との紛争が続いていたと思われる。貞和2年閏9月5日東大寺宿老等列参事書案からは,北伊賀悪党によって内保荘などの刈田狼藉が行われ,東大寺は鎮圧に苦慮していたことがうかがわれる(以上,東大寺文書10・11/大日古)。しかし,応永11年以降の東大寺年預の文書・記録勘渡帳に東南院の内保荘支配に関する記録があるので,室町期においても東大寺領として維持されていたとみられる(東大寺文書/岐阜県史史料編)。戦国期に入り,天文年間と推定される一宮頭役次第注文案には「御さしき入之御人数之事……〈内保〉米地殿御内方」とあり,当地の土豪として米地氏の名が知られる(三国地誌)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363179
最終更新日:2009-03-01




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