ケータイ辞書JLogosロゴ 相賀浦(近世)


三重県>南勢町

 江戸期〜明治22年の浦名。伊勢国度会【わたらい】郡のうち。はじめ田丸藩領,元和3年津藩領,同5年からは紀州藩田丸領。慥柄【たしから】組に属す。枝郷に相賀竈【おうかがま】があるが(元禄郷帳・天保郷帳),近世中期頃に独立したものと考えられる。村高は,「文禄3年高帳」41石余,「元禄郷帳」38石余,「天保郷帳」「旧高旧領」46石余。文禄検地帳では高37石余のほか塩年貢4石3斗。天和2年の指出では家数70・人数287(男151・女136),このうち船乗加子50,田畑小漁仕者93,商売仕者5などがおり,船24,このうち鰹船・さっぱ船22,7端帆船1,3端帆船1,網250(相賀浦郷土史)。寺院は臨済宗桂雲寺,ほかに薬師堂があり,神社は八王子・穀太神など7社。延縄でヤリイカを餌にして鰤や鯛をとる漁法は,鎗烏賊業として伊勢の川崎市場で名をはせた(南海村誌)。陸地の多くは相賀竈の支配のため,薪とりではしばしば竈と衝突した。平地が乏しいため住居が密集し大火に見舞われることが多く,寛文2年・宝暦13年・天明8年には全村焼失という。また津波・高波の被害も多く,明暦3年・宝永4年・安政元年と続き,明治3年9月の津波では大被害にあい字村への移転となった。しばしば飢饉に悩まされ,桂雲寺過去帳は天保8年の死者54人を記し,絶家とされるもの11軒にものぼった。今に「天明は食うや食わずで8・9年,巳午(天保4・5)のガシン未(同6)がこわい。申酉(同7・8)越えて戌(同9)の怖さよ」という諺を伝える。明治4年度会県,同9年三重県に所属。明治8年,相賀竈を合併。相賀浦側は海を主体とし,時に遠洋へも出るので,村役人は農業を主体とする竈側の占めることが多かったという。同22年南海【みなみ】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363312
最終更新日:2009-03-01




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