ケータイ辞書JLogosロゴ 小向御園(中世)


三重県>朝日町

 南北朝期〜戦国期に見える御園名。伊勢国朝明【あさけ】郡のうち。小向荘・小向郷ともいう。「神鳳鈔」に内宮領30町,上分米2石7斗とあるが,「神領給人引付」に1石,「外宮神領目録」に1石内牢籠半分と見えるから内・外両宮領であった。建武4年4月・7月と小向郷一分地頭本間有資代官田嶋貞国が北朝方として大口浜・岩出・田丸城に転戦し軍功をあげている(本間文書)。延文2年「外宮禰宜度会貞□」は小向御園上分口入米を地頭足助駿河守が押領し,催促に応じないため,庁宣を発するように訴えているが,その結果,庁宣が守護仁木義長に出されたのか,守護代とおぼしき某は足助駿河守に相違なく下知するようもとめている(御鎮座伝記裏文書)。寛正6年当御園内の幕府祈願寺正治寺住僧玄永を殺害したかどで名主山本兄弟は追捕をうけ,その所領が没収され,伊勢与一貞弘に与えられたが,幕府はその沙汰付を一色義直に命ずるとともに,貞弘代官の入部に助力するよう益田荘八か郷の輩に下知すべき旨土岐成頼に命じている(親元日記寛正6年7月6日条)。これをうけ一色・土岐両氏はそれぞれ遵行している(同前,寛正6年9月12日条)。この当時,幕府御料所であったが(同前,寛正6年11月24日条),延徳2年由緒により曇花院に返還され,寺領となった。しかし,その後,半分は伊勢上野介に与えられたらしく,永正5年ふたたび曇花院に返還され,一円所領となっている(伺事記録)。天文8年曇花院と朝倉下野守との相論が生じているが(披露事条々),同13年にも朝倉兵部大輔賢茂が荘内50石の地をめぐって相論を起こしている。賢茂は,明徳3年洪恩院(足利義詮室紀良子)より与えられて以後,当知行の地と主張しているが,幕府奉行人の意見状ではこれを認めず,曇花院の勝訴としている(伺事記録)。下って「信雄分限帳」では森清十郎の給地2,700貫文のうちに「朝明 七百四拾五貫三百 小向郷」とあり,「内宮神領本水帳」にも「おふけ」13石3斗・200文が見える。なお,朝日町小向には,鎌倉期建立といわれる正治寺跡と戦国期飯田庄之助が居城としたという小向砦跡の2つの中世遺跡がある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363729
最終更新日:2009-03-01




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