ケータイ辞書JLogosロゴ 小倭荘(中世)


三重県>白山町

平安末期〜室町期に見える荘園名伊勢国一志【いちし】郡のうち小倭田荘ともいう雲出川中流域左岸の垣内【かいと】川北東地域にあたる「吾妻鏡」文治3年4月29日条所引の同年3月30日の公卿勅使駅家雑事勤否注進状に,不勤仕荘の1つとして「小倭田庄 預所広元」と見え,大江広元が預所であったさらに,同書建久元年4月19日条には,造太神宮役夫工米地頭未済の荘園の1つとして,「小倭庄 下知広元畢」と見えるまた「室町院御領目録写」(集)には,六条院領として見え,「院御分」の傍書がある建武3年には,足利尊氏が一志郡「御山戸」を新宮に領知せしめて,祈祷を依頼している(熊野速玉大社文書)また応仁元年8月から9月には,足利義視が北畠国司家を頼り,当荘内の常光寺で12日間滞在した(応仁記・応仁別記)なお「京城万寿禅寺記」によれば,当荘内に三賀野荘があって,他に剽略されたとあるまた明応3年8月には,真盛上人のために,新長門守入道真九法師が当荘内に成願寺を建立し,同年9月15日には小倭百姓衆360人が,同21日には46人が,真盛上人の教化に従い,同信同行すべきことを誓う起請文を出している(成願寺文書/白山町文化誌)同起請文には,小倭百姓衆は稲垣【いなかけ】・佐田村・垣内【かいと】・大村・大仰【おおのき】・八対野【はつたいの】・谷杣・三賀野の各衆があり,上ノ村・中ノ村・南出を含む地域が当荘内であった永正10年内宮は庁宣を発し,小倭上分の催促を行っている(守晨引付)また「成願寺文書」には,大永8年,天文14・17・23年,弘治2年,永禄2年の各年にわたる徳政方指置状7通が残り,当地内で在地徳政が行われていたなお「勢陽五鈴遺響」によれば,「明応七年ハ新長門守経成総裁シテ領ス国司北畠家ニ属セリ」とあり,また「永禄天正ノ間ハ小泉氏等ノ七党領地シテ領スル処ナリ」とある天正4年には,北畠具親の挙兵によって,織田信雄が滝川三郎兵衛ほかを派遣し,当地を攻略したさらに天正12年8月には,蒲生氏郷によって攻略され,和議の後,織田信兼の所領となった(勢州四家記)なお,江戸期には稲垣村・佐田村・垣内村・大村・大仰村・谷杣村・三賀野村・古市村・岡村・中村・南出村・上村の12か村を総称して,小倭郷と称した(三国地誌)
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363760
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ