ケータイ辞書JLogosロゴ 柏野荘(古代)


三重県>伊賀町

 平安期に見える荘園名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。「柏野荘」の初見は天暦4年11月20日東大寺封戸庄園并寺用帳(東南院文書/平遺275)の「伊賀国阿拝・伊賀両郡柏野庄田十四町二百七十歩」であるが,天平神護2年12月5日伊賀国司解(東南院文書/大日古)によれば,東大寺が40町2反101歩の寺田を阿拝郡内に所有したことがわかり,これがのちに柏野荘および予野荘の母体となったとも考えられている。長徳4年東大寺領諸国荘家田地目録(東南院文書/平遺377)では別功徳分荘の1つとして「伊賀国阿拝郡柏野庄田二十町八段八十九歩 常荒・川成・収公田十六町七段二百六十三歩」が見えている。荒廃や収公が全体の8割に及んでいることを考えるならば,10世紀末には東大寺領荘園としての内実は必ずしも整ったものではなかったようである。一方,応和元年6月5日の妙香院荘園目録(門葉記)には,慈徳寺領として摂津国味舌荘とともに「伊賀国柏野庄被国領云々」とあるが,詳細は明らかではない。ところで柏野荘では現在の御代にあたる地域に,「柏野の市」が開かれたという。この市の発生は奈良期といわれ,「三国地誌」所収の「永閑伊賀名所記」によれば,柏野は膳野とも作られ,大膳職の料として葛・年魚などを奉納したためにこの名があるという。このあたりには奈良期,平城京から山背国相楽郡岡田駅,伊賀国阿拝郡新家駅を経て鈴鹿へ抜ける東海道が通っており,また木津川の水運も利用できる交通の要所であったため,このような市の立地をみたのであろう。柏野荘の比定地は伊賀町北西部,柏野・御代を中心とする地域であり,現在の柏野より広い地域であったと推定される。天喜元年3月27日官宣旨案(三国地誌・平遺701)には,「阿拝郡柏原庄」と記されているが,これは柏野荘の誤りである可能性が強い。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363863
最終更新日:2009-03-01




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