金綱御厨(中世)
南北朝期〜室町期に見える御厨名伊勢国朝明【あさけ】郡のうち「神鳳鈔」に内外両宮領15町,上分米各3石とある「神領納所記」には「五斗一貫,一石五斗」とあり,享徳元年「庁宣注文」も1石5斗「外宮神領目録」には「御薗」と載せ3石5斗,「神領給人引付」には給人として顕光・政所が併記されている建武4年4月と7月,小向【おぶけ】・金綱の一分地頭本間四郎左衛門尉有資代官田嶋貞国が北朝方として,大口浜・法田・岩出・田丸と転戦,軍功を挙げている(本間文書)文正元年の内宮庁宣によれば,当御厨は管領細川勝元より寄進をうけ,当時三日市庭大夫秀栄が代官であったが,彼は上分を未進,そのためこれを督促している秀栄はこれをうけ,下代官長松禅師侍者に上分米3石の納入を催促している(氏経引付)「尊卑分脈」4巻に,紀氏池田奉氏が宝治合戦の恩賞として給わったと載せる「釜綱御厨」田所職は当地を指すか比定地は朝日町縄生【なお】とする説が有力
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7363938
最終更新日:2009-03-01