ケータイ辞書JLogosロゴ 上柘植村(近世)


三重県>伊賀町

 江戸期〜明治22年の村名。阿拝郡のうち。はじめ伊賀上野藩領,慶長13年からは津藩領。村高は,天和年間頃の平高2,626石余(統集懐録),寛延年間頃の本高1,013石余(宗国史),「天保郷帳」1,193石余,「旧高旧領」1,178石余。寛延年間頃の戸数161・人数497,馬50,牛61(宗国史)。農産物は穀物のほかに,茶・真綿・漆・竹を産した(享和2年上柘植村名寄帳)。加太越街道の宿場で,また藩主の休息所として柘植公亭が置かれ(三国地誌),藩から当村に米1石余,役馬28匹に対して大豆(1匹につき1〜2俵ずつ)が下付され,諸役が免除された(宗国史)。五街道分間延絵図には「上柘植宿,佐那具宿江二里八町」とある。伊賀国の各宿にみられる火除堤(築山の形で一部残存)を境に東を上町,西を下町と称した。当宿の本陣と問屋を兼帯した富田家は,古くは福地と称し,平宗清の子日置宗俊の二男の子孫という。安永2年の「奥の細道管菰抄」をはじめとして,松尾芭蕉の当地出生説がある。国境・郡境に位置するため山論・水論が多い。なかでも近江国甲賀郡和田村・五反田村との山論は,天正元年から明治3年に至る300年間も争いを繰り返し(明治3年上柘植村より差上候書付控),明治9年の太政官布告をもって解決した。文政8年には,倉部川の上流にあたる当村と野村は余水をもらいうけるための下流の中柘植・下柘植・楯岡の3か村に一札を出した。上町には寛政元年刊の「諸国舎号」に見える心学道場・麗沢舎跡があった。寺社に,穴石神社・倉部天神社・浄土宗平庸山徳永寺・曹洞宗東明山玉林寺・曹洞宗徳雲山万寿寺・曹洞宗白毫山薬師寺がある。徳永寺は代々藩主から「定成二石,茶二貫二百匁,寺廻竹木」の寄進を受け,藤堂藩主代々施入文が10通ある。万寿寺には貞治3年の銘がある地蔵菩薩坐像,摺仏のほか胎内納入物がある。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同6年柘植学校(下柘植村)の第1分校として上柘植学校を設立。同22年東柘植村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7364029
最終更新日:2009-03-01




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