ケータイ辞書JLogosロゴ 木本御厨(中世)


三重県>海山町

 平安末期〜南北朝期に見える御厨名。志摩国のうち。合賀木本御厨・木本島・木本荘ともいう。伊勢神宮領(神鳳鈔・外宮神領目録)。寛治8年正月27日の前佐渡守大中臣朝臣某下文(古本村庄司氏所蔵文書/紀伊続風土記)に「下 宮貞 可早沙汰進木本御厨内杣山手事」とあるのが初見。前佐渡守大中臣朝臣は給主と思われ,常国の山預職を停止して新たに当御厨の検校である宮貞に杣山の管理をゆだねている。御厨の給主は大中臣氏が相伝したとみられ,天治2年11月22日の補任状(同前)の発給者は山城守大中臣朝臣となっており,「玉葉」承安5年8月26日条には当御厨をめぐって大中臣親俊と同親成が相論したことが見えている。鎌倉期に入ると,地頭職が設置され,下司はその支配下に入る。下司は平安期以来御厨の検校職を務めてきた息長氏が補任され,「古本村庄司氏蔵文書」には治承2年・寿永2年・建久5年・建保5年・寛喜3年の補任状が残されている。また,荘司職も設置されており,寛喜2年4月30日には息長守貞が補任されている。ただし,この当時は下司職と荘司職は同一とも考えられる。しかし,正応6年正月3日のはたのひさすみ配分状案(古本村庄司氏蔵文書/紀伊続風土記)では荘司の得分と下司の得分は明らかに区別されており,別個の職として存在していることが知られる。地頭・荘司・下司の関係は明確にできないが,この荘官職の複雑な分化は,当御厨の荘園領主のあり方に由来するかもしれない。弘安7年正月6日の亀山上皇院宣案(御巫家退蔵文庫旧蔵古文書/鎌遺15951)によれば,「合賀・木本両島」は永富名内にあり,この名の領家は按察二品御局家であった。この院宣は,預所職が二品局家の進止下にあること,また良宝法印の相伝の所職であることを確認したものであり,同年二品局家は同職に権律師親瑜を補任している(同前/鎌遺15088)。弘安9年には二条鎌倉法印が預所職(雑掌の誤りか)に三瀬蔵人入道実意を補任しているが(御巫家退蔵文庫旧蔵古文書/鎌遺15951),先の亀山上皇院宣に「永富名」の名が欠落していることを理由に「甲乙土民等」が年貢を対捍,このため二条鎌倉法印(良宝か)は内宮一禰宜に下知を加えるよう奉書を下している(御巫家退蔵文庫旧蔵古文書/鎌遺15960)。同10年にいたっても,百姓は年貢を抑留したため,雑掌寂意は重ねて「聖断」を下されんことを訴えている(兼仲卿記正応元年□月巻裏文書/鎌遺16352)。しかし下司・荘司職を兼帯した息長氏の支配も安定せず,弘長2年には息長氏とは別流と思われる後山三郎盛忠が荘司に任命され,正応年間には下司職に「はたのひさすみ」なる人物が見えている(古本村庄司氏所蔵文書)。南北朝期に入ると,下司の木本氏は伊勢神宮との関係から南朝方につき活動し,北朝方に与した熊野山新宮の勢力と対立した。鎌倉期までは二品家の支配を受けていた御厨も,康永3年7月26日に永富名の領主職(預所職の系譜を引くか)を所持していた僧良雅が「木本・相哥」の口入所職を伊勢神宮五禰宜度会国行に寄進し,神宮領として一本化されていた(櫟木文書/大日料6-8)。しかし,その後当御厨がどのような経過をたどって衰退したかは不明。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7364851
最終更新日:2009-03-01




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