ケータイ辞書JLogosロゴ 下柘植村(近世)


三重県>伊賀町

 江戸期〜明治22年の村名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。はじめ伊賀上野藩領,慶長13年からは津藩領。村高は,天和年間頃の平高2,348石余(統集懐録),寛延年間頃の本高1,972石余(宗国史),「天保郷帳」2,011石余,「旧高旧領」2,045石余。寛延年間頃の戸数204・人数848,馬6,牛23(宗国史)。農産物は穀物のほか,茶・真綿・漆・竹などを産した。五街道分間延絵図によると,上市場周辺には街村形態が見える。慶安2年以降当村・愛田村・上村の3か村は,子延【ねのび】・中柘植・野村・川東・川西・山畑【やばた】のほか多くの村々と山論を起こした。元禄3年の「上阿波之内子延村と愛田村下柘植村上村山論場所遂対決見分之上申付候覚」や子延村が当村宛に出した享保6年・明和6年の入会山の鑑札がある(下柘植区有文書)。文政4年に愛田村との間で水論があった(愛田区所蔵文書)。寺社に,日置神社・浄土宗光明院西光寺・黄檗宗法興山霊山寺・真言宗大宮山神王寺がある。日置神社は,伝承によれば平宗清の長男日置太郎家清が父の後を継いで下柘植に住んでいたとき同社を創建。天正伊賀の乱で焼かれたがのち再建され,元和3年に作られた「木造狛犬」が一対ある。また同社は柘植三所明神ともいわれ,慶長年間に愛田村から勧請したものという(三国地誌)。西光寺には平安後期の寄木造の阿弥陀如来坐像がある。霊山寺は,はじめ霊区山法興寺と称し伝教大師開創の七堂伽藍であったが,天正伊賀の乱で焼失し,延宝3年に霊山中腹に再建され,後に天台宗から黄檗宗となり寺号を改称(霊山寺縁起)。同寺の本尊十一面観世音菩薩像は焼失を免れた。霊山山頂の奥の院は法興寺跡で,延宝3年の刻銘がある青銅製の聖観世音菩薩(3尺7寸)が岩屋に安置されている。神王寺は日置神社の別当所である。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同6年,西光寺を借りて柘植学校を開設。同22年には同校を母体として西柘植尋常小学校が誕生する。同年西柘植村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7365276
最終更新日:2009-03-01




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