下友田村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。はじめ伊賀上野藩領,慶長13年からは津藩領。村高は,「統集懐録」では本高451石余・平高646石余,「宗国史」451石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに535石余。「宗国史」によれば,家数86・人数400,馬20,牛1。藩の御用立山があった。宝暦3年,上友田・中友田・下友田3か村で下草・小柴の採取権をめぐり山論が発生し,明治期まで続いた。無足人は稲増・竹内・山内・川合(河合)・福味・城・牧野・隠岐・平野の各氏がいた。天保15年,上柘植宿の助郷の赦免を嘆願した。神社は弁天祠と八幡祠(三国地誌)。八幡祠では10月1日八幡祭または産土講と呼ばれ,当屋祭の流れをくむ厳格な規律の行事が行われる。これは「野荒し」「謹慎」などの半被を農作物泥棒に着せて村内を回らせたもので,郷村自治の名残を伝える。寺院は浄土宗覚栄山森紅寺・西和山浄光寺があり,このほか「伊水温故」では浄土宗東風山日蓮寺,「三国地誌」では日泉寺が見える。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同年の戸数100。同12年秀盛学校を開設,同15年明治学校と改称。同22年鞆田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7365285
最終更新日:2009-03-01