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- 新所村(近世)とは
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新所村(近世) 江戸期~明治10年の村名出羽国由利【ゆり】郡のうち新所新田村ともいい,新ラ所・新処とも書く矢島前郷通【まえごうどおり】のうち子吉【こよし】川の氾濫原に位置し,現在の矢島町大字元町字新所【あらどころ】に当たる慶長7年~元和8年最上氏領,同8年本多正純領,同9年~寛永17年内越氏領,同17年から矢島藩領初見は元禄15年「知行高辻帳」で,生駒玄蕃新田高辻として新所村当高268石余とある宝暦6年「御領分覚書」では新処村285石余(うち本田268石余・新田17石)を記載家数43・人口187(うち男112・女75),御代官斎藤徳右衛門,大名主半田亦右衛門,小名主治左衛門,組頭清三郎・丹重郎・弥治兵衛・藤三郎ともある延宝年間の矢島百姓騒動に際して,発起人4人の1人としてあら所村重郎右衛門,7年の藩主上訴の総代の1人にあら所村助三郎の名が見える(鳥麓奇談)村鎮守愛宕神社この神社を中心に昔より市場が開かれたという(出羽国風土記・羽陰温故誌)明治10年須郷田【すごうだ】村・九日町村・新町【あらまち】村と合併して元町【もとまち】村となる(元町村誌) |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
新所村(近世) 江戸期~明治16年の村名豊前国田川郡のうち遠賀【おんが】川支流の彦山川上流域に位置する地内には鍾乳洞3があり,琴平山にはドリーネが散在する石灰岩質の土地「人畜改帳」「開善寺過去帳」,および嘉永5年の文書などには「新所」「新所村」と見え,藩内では独立村として扱われたが,郷帳・国絵図類には村名が見えず,幕府に対しては夏吉(夏焼)村1か村として書き上げられた夏吉村の新田として開発され,一説によれば寛永10年の成立ともいう小倉藩領糒【ほしい】手永に属す元和8年の家数26・人数49(男25・女24),牛6・馬2(人畜改帳)嘉永5年の家数60・人数272,牛32・馬7(田川市史)享保飢饉の餓死者は65人(開善寺過去帳)明治初年までに正式に夏吉村が東夏吉村・西夏吉村・当村の3か村に分かれ,当村が成立した明治初期の戸数62・人口253(男128・女125),牛44,産物は米184石・麦90石・櫨実9,000斤・石灰20万斤・煽石50万斤(豊前村誌)明治16年夏吉村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」