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- 末永村(近世)とは
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![]() | 末永村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 末永村(近世) 江戸期~明治9年の村名筑後国生葉【いくは】郡のうち耳納【みのう】山地東部の北方,筑後川中流左岸の微高地上に位置し,南に巨勢川がある文禄4年12月1日の小早川秀俊の杉助右衛門尉宛知行目録に「七拾壱石六升 すえなか村」と見える(萩藩閥閲録112)はじめ柳川藩領(田中氏),元和6年からは久留米藩領寛保3年国友貞八が120石を知行(給知高帳)石井組に属す村高は,「元禄国絵図」73石余,「在方諸覚書」の古高120石,「天保郷帳」73石余,「旧高旧領」147石余宝暦年間頃の役高は160石,久留米より6里15町(在方諸覚書)嘉永元年頃の作柄は「凡そ六俵半の田方,六俵の粟作」(廻村書留)文化4年の耕地は田6町余・畑4町余(農政農民史料集)豊後街道中道通り沿いの村である享保5年の大山汐・大洪水では「至極破損」という大きな被害を蒙った(石原家記)観音堂,氏神天満宮と崇める神木梅がある(寛延記)明治9年清瀬村の一部となる現在の吉井町清瀬の一部にあたる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 末永村(近世) 江戸期~明治9年の村名遠江【とおとうみ】国山名郡のうち末長とも書く太田川支流の原野谷【はらのや】川下流左岸に位置する横須賀藩領,元禄11年からは旗本菅谷氏領村高は,「元禄高帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに153石余戸数20(遠淡海地志)寺院には曹洞宗永伝寺がある助郷は,天保2年から同12年まで東海道見附宿の代助郷として出役し,勤高88石(磐田市誌編纂室収集文書)嘉永4年当時は,東海道袋井宿定助郷の代差村72か村の1村(袋井市史資料2)太田川の氾濫による洪水の被害をしばしば受け,安政3年には弁財天川中流の江之端悪水吐の普請をめぐり,当村ほか浅羽【あさば】輪中北部9か村と,南部30か村との間に争論が生じた(袋井市史資料3)明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県に所属明治9年馬場村ほか3か村と合併して浅羽村となる現在浅羽町大字浅羽の通称地名として残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」