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- 高瀬村(近世)とは
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![]() | 高瀬村(近世) 江戸期~明治22年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高瀬村(近世) 江戸期の村名... |
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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高瀬村(近世) 江戸期~明治20年の村名牟婁【むろ】郡のうち富田【とんだ】川の河口付近の左岸に位置する和歌山藩田辺領村高は,慶長検地高目録では112石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに165石余御高並村名帳によると富田組に属し,村高163石余うち新田高51石余(南紀徳川史10)「続風土記」によれば,家数82軒・人数382,小名は袋・円光などがあり,当村周辺で荒砥を産し諸国に売り出しているまた地内の袋の湊は舟繋の地で,その西に対の浦がある同所はまた富田浦の付浦でもある御領分加子米高帳(田中家文書)によると江戸初期の水主米高29石余地内を高瀬川が流れ,水利に富んだ水田地帯である熊野街道(大辺路【おおへち】)は当村から富田坂を越えて安居【あご】村に通じる宝永4年・嘉永7年には大地震による津波が襲い,ほとんどの家屋が流失宝永4年には多数の死者を出している幕末の地士には中村氏がいた(南紀徳川史11)寺院は臨済宗南昌山草堂寺があり,天明年間,長沢芦雪が訪れ襖絵を残しており,芦雪の師である円山応挙の作品もある明治4年田辺県を経て和歌山県に所属同6年には戸数92,男223・女226同12年西牟婁郡に属し,同20年富田村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 高瀬村(近世) 江戸期~明治9年の村名遠江【とおとうみ】国周智【すち】郡のうち気田【けた】川中流左岸,同川と熊切川の合流点付近に位置する駿府藩領,元和5年からは幕府領村高は,「元禄高帳」59石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに61石余山村のため元禄年間以後耕地の開発はほとんどみられない7町2反余の耕地のうち田は10%強年貢は金納で,売物2割出・黐【とりもち】役・駒役などが賦課され,朝鮮人使節来朝時は池田舟橋役を勤めた天保9年の家数29・人数108粟・稗・蕎麦・大豆・麦などを栽培し,茶・椎茸を特産とするまた,森林資源は豊富であったらしく,「遠淡海地志」によると戸数30で,地内に松・杉・樅が多いとある社寺には,権現社・曹洞宗永光寺・同宗洞水軒がある明治2年の戸数30(渡辺家文書・久保田神社文書)明治元年駿府藩領(同2年静岡藩と改称),同4年静岡県,浜松県を経て同9年再び静岡県に所属明治9年久保田村ほか4か村と合併して宮川村となる現在春野町大字宮川の通称地名として残る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」