ケータイ辞書JLogosロゴ 玉滝杣(古代)


三重県>阿山町

 平安期から見える杣名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。玉滝荘・玉滝村とも見える。天徳2年12月10日橘元実伊賀国玉滝杣施入状案(東南院文書/平遺271)からは,元実が玉滝杣を分割して,一部を平時光に売与し,先祖の墓地を中心にした部分(墓所杣)を東大寺に施入したことが知られる。この時東大寺に施入された杣の四至は「東限玉滝西峯 南限岡本西谷 西限真木川東峯 北限阿部川谷南峯」であり,現在の阿山町玉滝を中心とする地域と考えられるが,正確な四至の比定は困難である。翌天徳3年には杣山周辺の開発と杣の材木利用の独占が東大寺に認められる。東大寺は玉滝の領有を基礎に,橘氏より平時光に売却した部分と思われる内保や同じく橘氏から仁満に伝えられたと思われる湯船等も寺領化していき,玉滝杣はこれらを包摂した広い地域の総称となっていく。玉滝杣が拡大されていく中で,天喜年間には杣住人の耕作田の官物徴収をめぐって,住人と国司との間で激しい武力衝突が起きた。天喜4年閏3月26日に東大寺領に牓示を打ち,国使不入と官物免除を認める宣旨が出された(東南院文書/平遺787・789)ものの,この後も東大寺と国司との玉滝杣に関する相論は続く。また伊勢平氏の勢力がこの地に伸張してきており,永長2年に杣内鞆田村の家地・畠地が平正盛によって六条院領鞆田荘として立券されて以降,東大寺は平氏との相論にも力を注がなくてはならなくなる。永久3年4月30日鳥羽天皇宣旨(東南院文書/平遺1826)に引かれた東大寺の解によれば,玉滝杣は天平年間から数百年来の寺領として杣工の作田は雑役は免除,所当官物は東大寺の封米に便補されてきており,その数は玉滝村は20町,湯船村15町,鞆田村60余町,杣工は玉滝村・湯船村が15人,鞆田村は40人であったという。しかし正盛が鞆田村を押し取り,杣工を作人として駆使したため,寺への未進は300余石におよび,雑役等も勤仕されないといわれている。保安4年9月12日明法博士勘状案(東大寺文書/平遺1998)は,東大寺が玉滝杣内鞆田・予野・真木山3か村を平忠盛に押妨されたという訴えによるものであるが,東大寺が予野村の領有を主張して提出した証文に天平20年11月19日小治田藤麻呂解案以下の墾田売券が見えており,東大寺が玉滝杣は天平以来の寺領と主張する場合の根拠の1つとなったものと考えられる。しかしこれらの墾田が平安期の玉滝杣に直接つながるかどうかは明らかではない。大治4年11月21日東大寺所司解(平岡定海氏所蔵文書/平遺4693)において,東大寺が主張する玉滝杣の四至は「東限賀茂岱朝宮谷 南限伊勢道藤河 西限信楽杣北限近江国」で,それぞれ別々の経緯で寺領となった玉滝・湯船・内保・鞆田・真木山・予野などを1つにまとめた範囲となっており,だいたい現在の阿山町域に近いものと思われる。保元元年12月日東大寺三綱解案(東大寺文書/平遺2865)では,近来杣内の鞆田・予野村は平氏に押し取られ,往古の出作も国司に停廃されてしまい,杣の中心でかつ杣工の居住地である湯船・玉滝村だけが残ったという。一方,保元3年4月日伊賀国在庁官人等解(百巻本東大寺文書/平遺2919)からは,東大寺・国司と作人の間に,私領主が介在して,本来反別1斗であるべき加地子を6斗も非法に徴納するなど,杣内部の複雑な支配関係が知られる。治承5年6月3日東大寺伊賀国封米支配状案(谷森文書/平遺3965)によれば,便補された封米は杣全体で141石5斗であり,そのうちわけは玉滝村73石,玉滝寺7石3斗,湯船村46石2斗,内保村15石である。玉滝寺は現在も阿山町玉滝に位置しており,東大寺の玉滝経営の中核的機能を果たしていた寺院と推定される。寿永2年閏10月21日には,平氏没落をうけて,平氏との相論が続いていた鞆田村等の田地は,東大寺の領有に帰す。12世紀後半以降,玉滝杣はしだいに北杣といいかえられ,玉滝は主として杣内の1つの村名を意味する場合が多くなる。しかし他方で玉滝杣=北杣を玉滝荘と表現する場合も見られる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7365912
最終更新日:2009-03-01




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