ケータイ辞書JLogosロゴ 玉滝村(中世)


三重県>阿山町

 鎌倉期から見える村名。阿拝郡のうち。玉滝荘ともいう。国司と東大寺との対立は鎌倉期に入っても続いており,建久4年6月日東大寺三綱陳状(東大寺文書/鎌遺674)では,在庁官人が北杣内に100余町の出作田があるとするのに反論して,杣内の玉滝・湯船等の村々は「山内之本庄」であってまったく出作はないとしている。この争いも建仁元年7月日の記録所勘状(東大寺文書/鎌遺1236)によって,四至内なら寺領とする判断が下され,東大寺領北杣の四至内領域支配が確立していく。また平安以来の近江国信楽荘との丸柱の領有をめぐる相論も継続していたが,これも東大寺の勝利をもって終結したようである。建保4年6月日伊賀国留守所下文案(百巻本東大寺文書/鎌遺2241)からは,北杣内各村に造野宮屋々材木用途料米が賦課され,玉滝村52町9反に分米74石6升がかけられたことが知られる。また平安期末以降,「北杣(玉滝杣)五箇村」という表現が見られたが,この頃には5か村(玉滝・湯船・内保・鞆田・真木山村)のそれぞれを荘と表現する用法もあらわれる。嘉禄元年10月26日には,北伊賀御油神人定文(三国地誌/鎌遺3424)が作成され,北杣五箇荘に鎮守八幡宮神人が定置され,御油役を勤仕することが決定された。宝治3年3月25日には玉滝など北杣五箇荘の神人百姓等が連署して,槇山(真木山)荘預所の非法を訴え,槇山荘百姓の安堵を要求しており,五箇荘の結束した動きがうかがえる。しかし鎌倉末期には五箇荘の結束はゆるみ,文保年間に近江国池原竜法師・村百姓与一大夫入道以下が内保荘民を刃傷・打擲し,神人所持物を奪取した際,東大寺年預所が内保荘に与同するように他荘に下知したところ,玉滝荘沙汰人百姓はかつて玉滝荘が信楽荘に押妨された時には五箇一同の事はすでになく,内保荘民が自らの紛争を五箇荘に引懸けることは認められないとしている(東大寺文書11/大日古)。また玉滝・鞆田・槇山の3荘は尊勝院を,湯船・内保の2荘は東南院を領家としていた。暦応3年4月18日東大寺衆徒群議事書(東大寺文書/大日料6-6)などによれば,玉滝・玉滝寺・玉滝別符・湯船などの東大寺北伊賀諸荘は,名誉大悪党と呼ばれた服部高畠右衛門太郎入道持法以下の悪党によって押領され,濫妨狼藉が行われていたが,東大寺の要求にもかかわらず,幕府の悪党鎮圧は進捗しなかった。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7365913
最終更新日:2009-03-01




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