ケータイ辞書JLogosロゴ 柘殖郷(古代)


三重県>伊賀町

 奈良期から見える郷名。「和名抄」伊賀国阿拝【あえ】郡六郷の1つ。積殖・柘殖里・都介村とも見える。高山寺本は「柘殖」,東急本は「柘殖」に作る。「日本書紀」天武元年6月条に大海人皇子が,壬申の乱の際,伊賀国を北進して「積殖山口」に至ったと見え,平安遷都以前は大和と東海地方を結ぶ交通の要衝であった。ために,早くから南都諸大寺の荘園が設定されていた。天平19年の「大安寺伽藍縁起并流記資財帳」(寧遺中)に「柘殖原」の墾田と「柘殖庄一処」が見え,天平20年10月27日の太政官符案,同年11月19日の小治田藤麻呂解によれば,東大寺も藤麻呂の柘殖郷内の墾田・家地を荘として買得し,天平神護2年12月5日の伊賀国司解によれば,柘殖郷に22町6反余の田地を所有していた。このうち天平宝字2年11月28日の伊賀国司解に見える市原王よりの買得地10町は,のちの東大寺領予野村の領域と重なり,後世,寺領の歴史を主張するため利用されたが,予野村とは直接つながらず,初期荘園に多くみられるようにまもなく退転したもののようである。なお天平勝宝元年11月21日の柘殖郷長解によれば,元興寺領も存在した(以上,東南院文書/寧遺下)。平安期に入ると,東海道が仁和2年から近江から鈴鹿峠を越える路線(阿須波道)に変更され,この年柘殖付近にあったと思われる伊勢斎王の頓宮も廃止された(三代実録仁和2年6月21日条)。永保3年12月20日の伊賀国司庁宣によれば,「柘殖郷収納所」が東大寺領玉滝杣(出作)から官物を徴収しており,11世紀後半には玉滝杣(鞆田村)杣工の郷内への出作が行われていたことが知られる(東南院文書/平遺1203)。やがて「柘殖郷山内出作」は48町5反100歩にも達するが,官物の未進が続き,国衙の訴えを招いている(東南院文書/平遺1828,股野文書/平遺1279)。天仁2年にいたり,これら鞆田村出作「都介村田卌余町」は平正盛に押領され,六条院領に組み込まれた(東南院文書/平遺1826)。なお,平氏の押領地は後には予野村といわれており,杣工の出作が郷の北部に広がっていたことがわかる(東大寺文書/平遺2865)。その後,東大寺はたびたび平氏の押領を朝廷に訴えたが,在地住人を掌握した平氏の支配を切り崩すことはできなかった(東大寺文書/平遺1998)。また「源平盛衰記」(巻33)が源行家に従い播磨国室山の合戦で平家郎従の越中次郎兵衛盛嗣に討たれたと伝える「伊賀国の住人,つげの十郎有重」は当郷の住人であろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7366049
最終更新日:2009-03-01




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