ケータイ辞書JLogosロゴ 中友田村(近世)


三重県>阿山町

 江戸期〜明治22年の村名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。はじめ伊賀上野藩領,慶長13年からは津藩領。村高は,「統集懐録」では本高392石余・平高600石余,「宗国史」392石余,「天保郷帳」440石余,「旧高旧領」439石余。「宗国史」によれば,家数56・人数252,馬6,牛4。藩の御用立山があった。宝暦3年,上友田・中友田・下友田3か村で下草・小柴の採取権をめぐり山論が発生し,明治期まで続いた。無足人は,服部・深井・竹内・広岡の各氏がいた。神社は上友田村より移転したとされる朝日明神祠があり,祭祀は上・中・下友田3村で行われた(三国地誌)。同社は伊賀国の方位神として藩幣を受け,津藩3代藩主藤堂高久より朝日椿大明神の神号の鋳鉄製扁額(伊勢国安濃津御用鋳物師辻越後大掾政種作)などが寄進された。寺院は朝日明神社別当寺の宝光院と浄土宗久松山清林寺。宝光院は寛永年間以前は無本寺で,その後一の宮敢国神社の別当神光院に属したが,明治維新後は同院が廃寺となったため京都の大覚寺に属し,後に真言宗豊山派朝日山宝光院金性寺と称す。同寺には,宝暦6年上・中・下友田3村が雨乞い祈願のため寄進した梵鐘がある。幕末期に清林寺に寺子屋を設置。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同年の戸数52。同6年の馬場学校の分校中友田学校を開設,同12年永盛学校と改称,同15年下友田村の明治学校に統合された。養蚕業を副業とした。同22年鞆田村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7366452
最終更新日:2009-03-01




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