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- 中村(中世)とは
「中村(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 中村(中世) 平安末期~室町期に見える村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 南北朝期~戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 鎌倉期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 鎌倉期~室町期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 鎌倉期~戦国期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 室町期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 鎌倉期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 鎌倉期~戦国期に見える村名阿蘇郡南郷のうち正治2年12月14日の宇治惟泰譲状写(阿蘇文書/大日古13-2)に,阿蘇郡南郷内の村々の1つとして,「なかむら」と見え,当村など南郷内の10か村が,先祖相伝の私領田畠として新大宮司惟次に譲られている承久2年9月14日には,北条義時によって阿蘇社大宮司職とこの「中村」を含む10か村が惟次に安堵されており(同前/大日古13-1),元仁2年3月5日には北条泰時が同様に安堵している(同前)安貞2年9月15日には,同じく北条泰時が惟次の譲状に任せて,永野・世田村を除いた8か村と大宮司職を宇治惟義に安堵し,文暦2年8月27日には,惟義の譲状に任せて同様に宇治亀熊丸(惟景)に安堵しており,さらに寛元元年11月9日には,北条経時がこの8か村を亀熊丸に安堵している(同前)下って弘安10年3月23日の宇治惟景譲状写(同前/大日古13-2)によれば,柏村の代わりに南坂梨子が加えられて弟惟国に譲られ,同年10月13日の北条為時下文(同前/大日古13-1)によって安堵されているその後,南北朝期の正平7年2月吉日の阿蘇社上葺等次第(同前)には「一,南四宮之分……中村」と見え,南四宮の上葺料材を南郷の他の6か所とともに割り当てられているまた同18年閏正月25日の阿蘇社造営料木納帳(同前)にも「一,二丈五尺木 一本 なかむら分」とある下って長禄2年7月25日の阿蘇社(カ)造営料木諸郷村支配状(同前)にも「中村之分」として料木が課されている文明16年8月28日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(同前)には「中村之分」として,なかこか・峰・竹ノ倉・古閑原・別所・さかこき・みもり・松の木・はくま野の地名が見えるなお江戸期には松木村のほかに西中村の小村の峰村,下中村の小村古閑などが見える現在の白水村中松のうちに比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 南北朝期から見える村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 中村(中世) 鎌倉期~戦国期に見える村名豊後国大野郡大野荘のうち現在の大野町の中央部から南東部一帯を占め,一部は千歳村の西部に及ぶ大野荘4村の1つで,上村・下村に対し,それらにはさまれた地域に当たるので中村と称した「深山文書」建久3年3月11日の神領坪付境注文案に「一所中村 田口名 二月神事免」と見えるが,この文書は後世のものと考えられる疑いがあり,正確には,延応2年4月6日の尼深妙惣配分状に「女子犬御前分 同庄内中村地頭職 帯刀左衛門尉後家分〈数子在之〉」とあるのが初見(志賀文書/大友史料2)文書の通り大友能直後家尼深妙が,女犬御前と帯刀時直後家(保多田名)に譲ったところが「弘安図田帳」では,中村の地頭職は大友一族の戸次重頼が帯しているその伝領関係については大友氏の惣領制によるとする説,犬御前の子からの伝領とする説などがある当村には酒井寺(大護醍醐寺)があり,大友親秀の子良慶が入寺していた上津【あげつ】八幡社が当村の鎮守で,大野泰基の後と伝えられる大野氏(三代氏と改姓)が大宮司職を相伝した(大野氏系図/大野荘史料)徳治2年の中村年貢等結解状では,189石余の米・田付綿・雑枚布・甘葛・地子麦・桑・茜・太糸・門布・在家役銭・胡麻・大豆・差縄・葛粉などを領家三聖寺に送っている鎌倉期の終わりごろ,地頭・領家のあいだで,下地中分が行われた(三聖寺領文書惣目録/大野荘史料)戸次氏の領有は戦国期まで続いたようで,上津八幡社には戸次鑑連(立花道雪)が永禄9年に寄進した金幣,同12年寄進の鰐口がある(大野荘史料)天正15年8月13日の大友義統判物に「〈大野庄之内〉一所千貫 四ケ村」とある4か村の中には,当然中村が含まれている(志賀四郎文書/大野荘史料)... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」