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- 新屋荘(中世)とは
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![]() | 新屋荘(中世) 平安末期~戦国期に見える荘園名丹波国氷上郡のうち長寛3年3月6日の内大臣藤原宗能譲状案に「譲渡 家地并資財書籍庄園等事……一,新屋庄〈在丹波国〉」と見え,当荘が内大臣藤原(中御門)宗能から嗣子である宰相中将宗家に譲渡されている(南部文書/平遺3335)なお,同文書は疑問の余地がある嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録に「室町院御領」として「〈丹波〉新屋庄」と見える(竹内文平氏旧蔵文書/広島県史古代中世資料編Ⅴ)当荘は平安期以来皇室領荘園として伝領され,中御門家が領家であった照慶門院ののち,当荘は大覚寺統の所領となった領家である中御門家は,建武4年8月11日中御門冬定が宗重に当荘を譲与している(南部文書/香川県史資料編古代中世史料)康安2年7月3日弾正親王は某宮内少輔に新屋荘内田地村を宛行っている(広橋本改元部類記裏文書)その後,当荘は戦国期には上臈局領となり,「実隆公記」永正4年9月27日条に「上臈局丹州新屋庄事有被談之旨,聯輝軒東坡講尺」と見え,「言継卿記」永禄12年11月5日条所収の女房奉書では,新屋荘の年貢が近年は未納となっていた建武4年3月10日足利尊氏は久下時重に「丹波国新屋荘〈一条侍従木村跡〉」を宛行った次いで,延文3年12月20日足利義詮が久下時重の子貞重に安堵し,これ以後,久下氏は当荘の地頭職を相伝し,幕府将軍から安堵されている明応8年11月19日の久下道祖増丸知行注文にも当荘が見えるその後,当荘は丹波国守護細川高国の被官に押領され,永正5年10月5日幕府は当荘を久下政光に還付した(久下文書)また,永正6年11月11日久下政光は新屋荘名主百姓に山林を売却している(田路村文書)現在の柏原町大新屋・挙田【あぐた】・鴨野・北山・田路に比定され,大新屋が遺称地である |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」