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- 平野荘(中世)とは
「平野荘(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 平野荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平野荘(中世) 平安末期から見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平野荘(中世) 鎌倉期~室町期に見える荘園名城上郡のうち「簡要類聚鈔」第1に十二ケ所御領として「平野」とあり,一乗院門跡根本所領の1つ年貢米は年中の仏事・法令の用途に充てられ,人夫・伝馬以下の万雑公事を負担したという貞和3年2月日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に城上郡の一乗院方荘園として「平野庄四町四段半……同人抑留之」とある南北朝期には南朝方の地侍備後教蓮房に押領され,一時門跡の支配が及ばなかった応永6年正月8日付興福寺段銭段米帳(同前)にも当荘の記載があるまた応安7年の一乗院良昭受戒用途職人并荘々催状(天理図書館所蔵文書)に「平野下司〈三貫文〉」とあり,寺門・門跡から段銭・用銭などを賦課された一乗院門跡坊人渋谷氏が下司職を給与された(応永27年一乗院方坊人用銭支配状/天理図書館所蔵文書)現在の桜井市岩坂の字平ノが遺称地らしい... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平野荘(中世) 戦国期に見える荘園名筑前国御笠郡のうち天文15年4月5日の大村興景譲状(防長寺社証文15)には「一所拾捌石足 筑前国三笠郡平野庄在之」とあり,平野荘18石足は早良【さわら】郡代の大村興景の所領であったが,天文5年に観世音寺が愁訴したために大内氏から観世音寺に寄進され,不知行となったことが記されているまた平野社については,天文13年8月7日の大府宣(観世音寺文書/博多史料4)に「平野社敷地廿五町」とあり,大宰大弐大内義隆が観世音寺の執行膽闇に観世音寺領の1つとして平野社敷地25町を安堵していることが知られる近世の牛頸村のうちに比定されるなお平野社は現存している... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 平野荘(中世) 鎌倉期に見える荘園名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」