ケータイ辞書JLogosロゴ 槇山村(近世)


三重県>阿山町

 江戸期〜明治22年の村名。阿拝郡のうち。はじめ伊賀上野藩領,慶長13年からは津藩領。村高は,「統集懐録」では本高706石余・平高733石余,「宗国史」706石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ではともに905石余。「宗国史」によれば,家数143・人数629,馬43。近江国甲賀郡長野村に通じる五滝道(信楽街道)が地内を通り,新田小場の入口には,古道の名残をとどめる「右ちようし(勅旨)・左こうやま(神山)」の道標がある。運上松茸は9,095本で,伊賀国総運上の16.9%を占める。元禄10年の国絵図改訂を契機に,当村および伊賀国側の丸柱村・比曽河内村と,近江国甲賀郡の神山村・江田村・長野村などとの間に三郷山入会争論が発生し,同13年幕府の裁定により幕府留山とされて伊賀国側の敗訴となった。「三国地誌」に槇山窯が見え,古くから窯業地帯であったが,技術は信楽焼の伝播によると考えられる。服部姓の無足人がいた。神社は延喜式内社真木山神社で,屹立した白色の珪岩を御神体としたことにより古くは白石大明神と称した。社地はもと白石谷にあったが,伊賀一揆後現在地(白好)に移転したという。毎年4月18日の例祭終了後には,開扉のまま能舞台で病気平癒の報賽の詞を述べる神翁式を行い,能楽の奉納後閉扉される。これは,宝永年間に奈良の金春流能師某が参宮途上に社前で腹痛をおこした際,平癒すれば能楽を奉納することを祈願し,願がかなったことに由来すると伝え,祈願跡は翁の芝と呼ばれる。同社の梵鐘は,宝暦3年に近江国甲賀郡寺庄村の望月若狭掾源啓明の作とされる。寺院は浄土宗弘誓山西光寺と光明山東福寺。東福寺は恵心僧都の開基と伝えられるが,のち廃寺となり,同寺にあった室町初期の石造宝篋印塔は,西光寺本堂裏に移築され,町文化財とされる。服部勝治郎宅に寺子屋が開設され,現在も同家の屋号は寺子屋さんと呼ばれる。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同年の戸数151。同9年槇山学校を開設,同17年興盛学校槇山分校,同22年槇山尋常小学校となる。同22年玉滝村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7367687
最終更新日:2009-03-01




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