ケータイ辞書JLogosロゴ 南五味塚村(近世)


三重県>楠町

 江戸期〜明治22年の村名。伊勢国三重郡のうち。桑名藩領。村高は,「元禄郷帳」322石余,「天保郷帳」425石余,「旧高旧領」では444石余。元禄9年,鈴鹿川を境とする当村など楠郷6か村と河曲【かわわ】郡中戸村・池田村・高岡村3か村との間に,堤防をめぐる紛争があり,幕府の裁定により,楠郷側の敗訴となった(南川杉島家文書)。文政7年の楠村差出帳では,田416石余・畑114石余,家数108,人数は男207(うち15歳以下68)・女206,牛4,公儀渡船9,水主55。寛政2年,北五味塚村板倉勘三郎の祖先が酒造を始め,同村とともに楠郷の酒造の中心となった。水害や気候不順による飢饉は数多く,とくに天保4・7年の大飢饉(天保申年飢饉雑録巳年附記/岡田家文書)や文化2年・天保12年・嘉永2年の水害(楠村水害史)の影響は大きかった。神社は字南塚に村社南御見束社があり,祭神は猿田彦神(白鬚大明神)と応神天皇。寺院は真宗高田派梅松山立法寺があり,慶長2年真言宗から改宗。同寺には加田喜兵衛一族の過去帳が残る。加田喜兵衛は鈴鹿川派川の河口からとれる良質の砂を利用し天和年間から鋳造を始め,鋳造は子孫により安政年間頃まで続いた(加田家文書)。字地先には松平定信の直植と伝えられる一葉松の古木があったとされるが,昭和31年枯死(県風土史蹟)。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同年片岡善治郎と永田要次郎が南五味塚義塾を開設。同9年南川村と連合で村会所に南五味塚学校を開設,教員数1,生徒数男28・女3(県史稿),同10年同校は北五味塚学校に合併,同15年分離し南久寿学校を設置。同20年久寿学校と合併し楠尋常小学校となる(楠小沿革誌)。明治12年南川村と連合し戸長役場を設置。同22年の戸数178・人口1,014(町村分合取調書)。同年楠村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7367901
最終更新日:2009-03-01




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