ケータイ辞書JLogosロゴ 山畑村(近世)


三重県>伊賀町

 江戸期〜明治22年の村名。阿拝郡のうち。はじめ伊賀上野藩領,慶長13年から津藩領。村高は,天和年間頃の平高580石余(統集懐録),寛延年間頃の本高545石余(宗国史),「天保郷帳」638石余,「旧高旧領」645石余。寛延年間頃の戸数144・人数599,馬3,牛38(宗国史)。農産物は穀物のほか,茶・真綿・漆・竹などを産した。正保4年に津藩士西島八兵衛は伊賀国における新田開発の初めといわれる山畑新田を開発したが,同地は西隣の川東村と当村との境堀山付近とされる。また,西島氏はこの7年後に名張郡の美濃波多新田を開発した(宗国史)。文化12年の余水仕掛掟の碑があり,これは当村の四海谷池と古池,川東村との境外池と栗林池の余水に関するもので,「八月彼岸より二月彼岸迄之内余水取申すべく候」とある。天保年間頃川西村・川東村・当村と西之沢村との間で山論が起こった(天保5年野争論和談下済状控)。社寺は,地内子守に勝手神社,曹洞宗神護山普門寺,谷手に加身寺,瀬口に念仏寺がある。勝手神社には毎年10月10日の例祭に奉納する神事踊りが伝わる。この踊りは五穀豊穣・村内安穏を祈る農村に共通の「カッコ踊」の1つであり,20人で踊る踊りが20種類あり,各家の長男のみが参加する。普門寺は勝手神社の別当寺で,もと真言宗であったが,広禅寺第8世麒山玄麟が永禄10年に開創してから曹洞宗となる。明治4年安濃津【あのつ】県,同5年三重県に所属。同12年川東学校(川東村)から分かれて山畑学校が開校。同22年壬生野【みぶの】村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7368189
最終更新日:2009-03-01




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