ケータイ辞書JLogosロゴ 湯船荘(古代)


三重県>阿山町

 平安期に見える荘園名。伊賀国阿拝【あえ】郡のうち。湯船村とも見える。天禄2年5月22日伊賀国阿拝郡司解案(東南院文書/平遺304)によれば,もとは橘文懐の所領であった阿拝郡川合郷内の湯船荘は,橘貞子・全子に譲与されたが,その時文懐の子で玉滝杣の所有者であった橘元実の子輔弼が妨げたため相論となり,その結果,貞子の名で立券されたことが知られる。荘の四至は「東限小榅川 南限藤川 西限高榅峯并二俣榅 北限国堺」とあり,現在の阿山町北東部,東湯舟・西湯舟周辺地域と考えられ,同地には「小榅」の地名も残されているが,正確な四至の比定は困難である。万寿2年5月14日威儀師仁満解案(東南院文書/平遺499)によれば,正暦年間に東大寺使が湯船荘内に乱入し,玉滝杣領と号して地子を責徴したため,当時領主であった中満法師は訴えて地子徴収を免除させた。しかし万寿2年になって再び問題が再燃したため,領主権少別当威儀師仁満の申請により,湯船荘四至内田畠地子・臨時雑役の免除が玉滝杣司等に命じられる(東南院文書/平遺500)。しかし東大寺僧によって伝領された湯船荘は,11世紀頃には東大寺領玉滝杣内に編成されていったと思われる。承保4年10月23日僧覚増解案(村井敬義氏本東大寺古文書/平遺1145・1146)によれば,湯船荘内鞆田村には元慶年間前阿波守藤原万枝が荒野を開発領掌したことに由来するといわれる8町余の田畠が存在しており,のちに平氏によって六条院領とされる鞆田村も本来は湯船荘内に含まれたと思われる。東大寺の支配が強化されるにともない,湯船は玉滝・鞆田などとともに玉滝杣を構成する1つの村といわれる場合が多くなる。11世紀以降住人耕作田の官物徴収をめぐって国司と東大寺の争いが続き,何度も相論が繰り返されるが,永久3年4月30日鳥羽天皇宣旨(東南院文書/平遺1826)に引かれた東大寺の解によれば,玉滝杣は天平年間から数百年来の寺領として,杣内各村の杣工作田は雑役免で,官物は東大寺の封米にあててきており,その数は玉滝村20町・湯船村15町・鞆田村60余町,杣工は玉滝・湯船村が15人,鞆田村が30人であるとされている。保元元年12月日東大寺三綱解案(東大寺文書/平遺2865)では,北杣(玉滝杣)は本願勅施入官省符の寺領であるが,近来故平正盛によって杣内の鞆田・予野村が押し取られ,往古の出作も国司に停廃されたため,わずかに湯船・玉滝村だけが残されたという。一方,応保2年5月22日官宣旨(東大寺文書/平遺3221)に引かれた国司の奏状によれば,北杣内湯船・玉滝村分の国衙の所当官物のうち,見米140石は東大寺封米に便補し,残りは国庫に弁済してきたのに,近年は本来は反別1斗の加地子徴収権しか持たないはずの村々の私領主が地子と号して反別6斗の見米を非法に徴納して官物を対捍し,国検田も請けないといわれており,国司・東大寺と住人の間に,私領主が介在し,複雑な支配関係になっていたことが知られる。治承5年6月3日東大寺伊賀国封米支配状案(谷森文書/平遺3965)では,北杣(玉滝杣)分141石5斗の封米のうち,湯船村分は46石2斗とある。また保元2年5月の東大寺三綱陳状案によれば,湯船領家職は東大寺三論宗本院東南院に付けられていた(東大寺文書/平遺2886)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7368315
最終更新日:2009-03-01




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