ケータイ辞書JLogosロゴ 湯船荘(中世)


三重県>阿山町

 鎌倉期〜南北朝期に見える荘園名。阿拝郡のうち。湯船村とも見える。文治2年7月日東大寺三綱等解案(東大寺文書/鎌遺133)によれば,盗人を国衙に触れず私に誡を加えたため,同年4月伊賀国検非違所使が湯船に乱入して雑物を捜し取り,5月にも武士20余人が入部し馬1疋・在家雑具を捜し取ったという。伊賀国司との北杣(玉滝山)をめぐる相論はこのころまで続き,国司が杣内の田は公領であるとするのに対し,東大寺は杣内の湯船・玉滝等の村々は「山内之本庄」で,反歩の出作もないと反論している。建仁元年7月の記録所の判決は,四至内であれば停廃の限りではないとしており,湯船を含む北杣は,東大寺の一円支配が確立されていく(東大寺文書/鎌遺1236)。ちなみに「東大寺続要録」所収建保2年5月日東大寺領諸荘田数所当等注進状(鎌遺2107)には,「湯船村三十三町,近来所下五石四斗五合」と見えている。また建保4年6月伊賀国留守所下文案(百巻本東大寺文書/鎌遺2241)は,東大寺領北杣内の各村に造野宮屋々材木用途料米を賦課したものであるが,その中に「湯船村卅三丁六十歩 分米四十六石二斗四升四合」とあり,湯船村の田数は平安期の2倍ほどに増加していることが知られる。嘉禄元年10月26日北伊賀御油神人定文(三国地誌/鎌遺3424)によって,湯船・玉滝等の北杣五か所に鎮守八幡宮の御油神人が定め置かれ,御油役を勤仕することになった。このころには北杣内五か所はそれぞれ荘と呼ばれるようになる。宝治3年3月25日伊賀国北杣百姓神人等連署申状に,湯船荘は五か荘の1つとして,尾張兼弘以下5名の名を連ね,槇山荘百姓の安堵を要求しているが,文保元年12月日東大寺年預所下知状案(東大寺文書11/大日古)によれば,五か荘の1つ内保荘へ,近江国池原竜法師・百姓以下が乱入して,内保の百姓を打擲・刃傷し,神人所持物を奪取した際には,他荘は内保荘に与同しなかったとあり,この頃にはそれぞれの荘が自立化を示していたことが知られる。また正慶元年10月には当荘の荘民などによって東明寺(廃寺)の鐘が鋳造され,そこには「東大寺御領伊賀国阿閉郡湯船庄東明寺」の銘が見える(日本古鐘銘集成)。暦応3年8月23日室町幕府引付頭人奉書案(東大寺文書/大日料6-6)によれば,湯船荘は他の北伊賀諸荘とともに,服部高畠右衛門太郎入道持法・村木彦三郎以下の悪党によって,狼藉が行われており,東大寺の要求にもかかわらず,幕府の悪党鎮圧は進まなかった。近世の西湯舟村・東湯舟村に継承され,現在の阿山町西湯舟・東湯舟一帯に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7368316
最終更新日:2009-03-01




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