ケータイ辞書JLogosロゴ 浅井荘(古代)


滋賀県>びわ町

 平安期から見える荘園名。荘域は明確にできないが,現在のびわ町にあたると推定される。また,浅井保が荘園となったものか。寛治8年5月29日の「官宣旨案」に,大安寺領として国司入勘・臨時雑役の停止が認められている(平遺1331)。この文書にすでに浅井東・西荘と見え,荘園に東・西があり,以後はその区別はあまり明記されない。その後の伝領には,3流あり,1つは山門妙法院門跡を本家とする子院勝安養院領として康永3年7月の「妙法院文書」に見える。これによれば,円実法眼より実全座主に譲られたとあり,建仁以前からの所領であることがわかる。また文和2年の「梶井宮門跡領違乱所々注文」にも浅井荘が見える(菅浦文書771-ハ)。第2は,興福寺を本所とするものである。「興福寺三綱補任」から寺主法橋好舜の注記に「建治3年3月出仕,国浅井庄拝領之」とあることをはじめとして,以後応永末期まで権寺主・都維那に伝領されていった経過がわかる。また,応永5年6月17日付の権寺主栄舜への宛行状もある(興福寺東院雑記)。さらに文安元年4月には春日社領として段銭が免除され(建内記),長禄元年月には日吉社造営段銭免除の礼物として大乗院領浅井荘より5貫文が送られている(大乗院寺社雑事記),などがわかる。なお永禄11年の「竹生島納帳」には「益田南郷興福寺公文請ノ内字ムシロ田」の1反が見えるが,この地は現在のびわ町十九【じつく】にあたる。ここに荘域の一端がみえる。第3は,皇室領(八条院領)としてである。安嘉門院より亀山天皇へ,さらに昭慶門院領に伝わったもので,嘉元4年6月12日の「昭慶門院所領目録」にあらわれ,「年貢万疋」とある(東浅井郡志4)。なお,文明10年,「仁和寺当知行文書目録」に「一結 大原荘 此内浅井庄納之」とあるが,伝領関係は不明。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7368520
最終更新日:2009-03-01




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