ケータイ辞書JLogosロゴ 朝日郷(古代)


滋賀県>湖北町

 平安期から見える郷名。浅井郡13郷の1つとして「和名抄」に見え,現在の湖北町山本・五坪【ごのつぼ】・大光寺・田中・今西・延勝寺・津里【つのさと】・石川・東尾上【ひがしおのえ】・尾上に比定されている。中世には国衙領として残り,斎藤氏が住して朝日氏と号し,その惣領家が朝日郷を管領した。また朝日郷久米名地頭職は斎藤朝日氏庶子家が相伝している。文永5年の斎藤清時の「久米名地頭職譲状」に「於国衙米者,可弁惣領之方」とあり(鎔冶漫録),また貞和4年12月7日久米名地頭斎藤秀定は「惣領斎藤彦三郎左衛門尉貞基,貞和二年以来押妨」と訴え足利直義より安堵されている(祇園社旧記)。「康正二年造内裏段銭并国役引付」に「壱貫文 朝日近江守 朝日郷段銭」と現れる(群類28)。朝日氏は室町幕府奉行衆で,「文安年中御番帳」に三番衆として斎藤朝日三郎・朝日彦左衛門尉ら7名が見え,朝日氏はこの地に大きな勢力をもっていたと考えられる。以上のことから,この地が室町幕府御料所となったことも推定でき,さらに文書の伝存から祇園社あるいは延暦寺の領有も考えられる。なお,室町後期に活躍する浅見氏は朝日氏の代官といわれている。大永6年7月27日付の「京極氏奉行人連署奉書」は,「朝日郷名主百姓中」に宛て,山本金光寺領を競望する族の停止を伝えており(金光寺文書)当郷内に同寺領があったことがわかる。また,延慶2年3月6日の「大徳寺末竜翔寺々領目録」に「一所近江国朝日郷内二段半」が見え(竜翔寺文書),文明15年12月18日付の「五坪藤九郎隆雄田地売券」に「合一段者 在朝日ノカウノ内アサ名おうとり居ノ観音堂ノ北」が見える(坂田郡総持寺文書)。その他明応7年3月6日付の「五坪くるま依忠田地売券」には「合一反者 在江州浅井郡朝日郷之内字クホタ」が見える。さらに,永禄11年の「竹生島納帳」に芝田彦太郎方寄進として「朝日郷内十二坪字ツカ町南ヨリ五 壱反」,常順寄進として「浅井郡朝日郷字上御房田 一段」が見える。なお,「荘園志科」は「建内記」文安元年4月1日条に見える「江州浅井西庄」を朝日郷の荘園化したものとするが,詳細は不明。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7368537
最終更新日:2009-03-01




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