ケータイ辞書JLogosロゴ 安曇河御厨(古代〜中世)


滋賀県>安曇川町

平安期から見える御厨名高島郡のうち寛治4年7月13日に堀河天皇が上・下賀茂両社に不輸田600余町を寄進した時に設置これに先立ち同年3月24日に,上賀茂【かみがも】社領となるとの噂を聞いた下賀茂社が「堅田【かたたの】御厨網人等解状」を添えて安曇川半分の領有を申請したが(平遺1287),結局上賀茂社領となった当時は神人52人・公田人別3町を引募って,夏は河川で冬は湖辺で漁し,毎日朝夕の贄を備進していたが,寄人や神用の員数が減少し,日供が思うようにならなくなったため,大治元年には天永・永久年間の免状にまかせ寄人52人・神田156町をもって社役を勤仕すべき旨の宣旨が下されたまた嘉応の宣旨では,安曇川河上の滴水から河尻まで他人の競望が禁じられている(鎌遺4337)これは,河川が多くの荘園域を貫流していることにより次第に他荘領民等の妨害が生じてきたからであるさらに寿永3年4月24日には,源頼朝が「院庁下文」をうけて武士等の狼藉濫吹を停止しているし(平遺4155),元暦元年12月29日には,河上【かわかみ】・善積【よしづみの】荘をはじめとする国中権門勢家荘園領民による漁進の妨げを停止せしむべき宣旨が下されている(平遺4224)次いで文治2年9月5日,頼朝は近江守護佐々木定綱が御厨を知行することを停め,先例に任せて神役を勤仕すべきことを裁定している(吾妻鏡)そして,貞永元年には,比叡荘の吉直なる人物が神人の漁撈を妨げたため,6月30日宣旨を下して妨害を停止し吉直の身を召禁することが命ぜられている(鎌遺4337)また,明徳2年9月24日には社家より所務職を田中殿に付していることが知られる(朽木文書)天文年間頃に至って安曇川荘と称し,この頃には贄の供進のみにとどまらなかったと考えられている(高島郡誌)御厨内には,船木北浜【ふなききたはま】・藤江【ふじえ】村・川島村の各地があり,このうち船木北浜は禁裏御料とされ(高島郡誌),貞永元年の宣旨に供菜人が居住していたことが見えるまた,藤江村は,嘉禎4年9月20日将軍頼経が近江守護佐々木信綱に命じて守護使の安曇河御厨内への入部を止めさせている史料中にあらわれる(吾妻鏡)
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7368564
最終更新日:2009-03-01




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