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- 愛智荘(古代)とは
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愛智荘(古代) 平安期に見える荘園名愛智郡のうち元興寺領聖武天皇が天平勝宝5・6年に先帝の施納物をもって百姓の墾田等を買得して成立したと伝えられる「本願荘」と,9世紀以後の買得田で形成されている初見は承和4年で,その時元興寺が買得した土地で弘仁12年以後の国の田図に記載が漏れている田地を書き上げ,国図に記載し,元興寺領であることを確認するよう申請している(平遺62)また,貞観元年の検田帳は,検田使僧延保が実際に荘地に臨み,約10年の歳月をかけて,公田や百姓治田になっていたり田品が変化していた3町余の田地を,再び寺田として確立させた報告書で,在地の有力者との交渉の様子も知ることができ興味深い(平遺128)この時期の荘面積は不明であるが,11世紀中頃には寺領は60余町となっており,うち免田は12.3~16町程度でその他は「土田」や畠地であった永承5年の地子米結解【けちげ】によると地子は反別3斗で,免田14町余から42石5斗を収取しており,荘の運営用5石2斗,運賃雑用3石8斗5升を除き33石4斗5升が湖西堅田【かただ】を経由して納入されている(平遺687)康平3年に寺側は地子を3斗から5斗へ上げ,段別に雑事を加徴する,領田に加地子・作畠に地子を賦課するなど支配の強化を企てており,田堵【たと】らも国衙収納使目代と同心し抵抗していることが知られる(平遺954)この頃まで,ほぼ同地域に存在した東大寺領愛智荘とは別個の荘園であったことが確認できるが,平安末期の永暦2年には東大寺領愛智荘に関する史料の中に,さきの貞観元年の検田帳などが含まれており,この以前に元興寺領愛智荘は東大寺領愛智荘に吸収合併されてしまったようである(平遺3152)なお,元興寺領愛智荘は愛智郡8条8里から13条10里の地域に散在し,その坪付の中には古家田・柴原田・栗栖田・胡桃本田・荒木田・咋背田・家田・門田・栗前田などの地名をもつものがあったこの地域は愛智井【えちゆ】によって灌漑される地域で,周辺の条里とは方向の異なる条里が存在しており,古代の開発のあり方として注目される現在の湖東町清水【しゆうず】・畑田・平居,愛知川【えちがわ】町豊満【とよみつ】・東円堂付近に比定されよう |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」