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- 愛智荘(古代)とは
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愛智荘(古代) 平安期に見える荘園名愛智郡大国郷のうち東大寺領東大寺僧安宝が斉衡3年~貞観8年の11年間に買得した大国郷内11か所計1町3反余(10条5・6・10里,11条7・8里,12条7里に散在)の墾田を中心に形成された荘園で,貞観18年同安宝が作成した「近江国愛智荘定文」では12町に拡大している(平遺172)同文書によると,構成は佃【つくだ】2町・荘田10町で,各々穫稲800束・地子米35石を予定しているしかし,不輸租権は認められておらず,租料として30束が計上されているその他次年度の佃の営料として200束,馬料(米運搬の駄馬料)・荘用(荘経営の諸経費)・米運功(運搬人夫の手間料)を除き,米に換算して45石が,東大寺の倉庫が所在する大津に運ばれているその用途は講経料30石・宗学衆施燈料10石,残り5石は出挙【すいこ】して治田の買得料に宛てる予定になっている(平遺172)天暦4年の「東大寺封戸荘園并寺用帳」(平遺252),長徳4年の注文定(東大寺要録)に見える愛智郡大国荘(7町1反余)はこの愛智荘の後身と推定されるなお,同時期大国郷に所在した元興寺領愛智荘との関係は,安宝の買得墾田の坪付と一致せず,康平年間にも元興寺領愛智荘が存在することなどから,平安中期にあっては別個の存在であったとするべきであるしかし,平安末期永暦年間には両荘が合体され,東大寺領愛智荘が成立している(平遺3152)現在の湖東町菩提寺【ぼだいじ】・長【おさ】・小田苅【こたかり】地域に散在していたと推定される |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」