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「大塚(中世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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大塚(中世) 鎌倉期~南北朝期に見える地名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 鎌倉期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 戦国期に見える地名伯耆【ほうき】国会見【あいみ】郡のうち戦国末期と推定される年月日未詳吉川広家領地付立(吉川家文書/大日古9-1)に,八幡・小松・新庄などと並んで「参百貫 大塚」と見えるその所在は明らかでないが,八幡・小松・新庄などがいずれも会見郡に属し,現在の米子市・西伯【さいはく】町にあることからすると,その記載のあり方からみて現在の米子市南部にあったものと推定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 室町期に見える地名遠江【とおとうみ】国山名【やまな】郡のうち応永3年6月15日の今川貞也(了俊)書下によると,了俊は遠江国守護として山名荘政所に対して高部郷内の大塚の地を本間範季に返付するように命じている(本間文書/大日料7-2)現在の袋井市には大塚の遺称地は見当たらないが,江戸期の高部村が現在の袋井市域にあたるので,当地もその付近に比定される... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 戦国期に見える地名郡名は不詳永禄12年9月1日の北条氏邦印判状に「知行方 一,拾貫文 長浜之内 一,拾貫文 大塚之内」と見え,計20貫文の地を同年の武田信玄の来攻に伴う鉢形【はちがた】城での攻防戦での勲功の賞として吉橋大膳亮に宛行っている(武文)長浜が現在の上里町大字長浜に比定されることから,大塚もその付近と思われるが不詳... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
大塚(中世) 室町期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」