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- 桃原村(近世)とは
「桃原村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 桃原村(近世) 王府時代~明治29年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 桃原村(近世) 王府時代~明治41年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 桃原村(近世) 王府時代~明治41年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 桃原村(近世) 王府時代の村名国頭【くにがみ】方羽地間切のうち村名は「絵図郷村帳」などには見えず,「当時用候表」に記される乾隆元年(1736)蔡温の山林政策により,羽地間切の山林内にあった桃原村ほか4か村が移動させられた(球陽尚敬王24年条)桃原村の住民は屋我地【やがじ】島の済井出【すむいで】村に移動した同3年跡地に今帰仁【なきじん】間切湧川村を創建(球陽尚敬王26年条)現在の名護市済井出の神アシャギ付近が小字桃原である「呉我誌」によれば,呉我村に編入されたという... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 桃原村(近世) 江戸期~明治8年の村名飛騨国吉城【よしき】郡高原郷のうち天正14年から金森氏領,元禄5年からは幕府領高原川と双六【すごろく】川との合流点に位置する「後風土記」には「村名義は,無民家故,古伝も失たり按に,古へ桃林の在し故に名に負つらむ」とある村高は「元禄検地帳」で9斗余,「天保郷帳」1石7斗余無住の村で,耕作は近村から出作した鎮守は白山社で氏子は双六・中山14戸よりなる(後風土記)明治8年双六村へ編入... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」