ケータイ辞書JLogosロゴ 青野村(近世)


京都府>綾部市

 江戸期〜明治22年の村名。丹波国何鹿【いかるが】郡のうち。綾部藩領。はじめ綾部村の枝村,のち分村独立。「巡察記」によると,天保期頃の村高587石余,反別田17町余・畑30町余,戸数60余・人口268,牛15。「旧高旧領」では村高596石余。由良川と旧河道の間の微高地は嶋とよばれ,畑地として桑・木綿が多く作られた。旧河道は水田となり,その南の微高地は畑・屋敷地として用いられた。綾部井堰は,新宮村と対岸味方村の間で由良川を堰き,熊野新宮神社東隣で取水し,旧河道に掘った水路によって下流由良川左岸の水田を灌漑。井堰は近世初期にはじめて築造したと伝え,綾部藩主九鬼隆季が入部した時,すでに絵図に見えている。井組には青野村・綾部町分・井倉村・岡村・延村・大島村が属し,都合90町余の水田を養った。文化年間の堰長は240間。出水による堰体の修復には藩の援助を受け,井根御留山として定められた2か所の山の木を伐り出して用いた。文化12年の修復には桁500本・杭5,000本と記され,井組の村々より人足を出した(沼田文書)。慶応3年,綾部藩の代官近藤勝由によって延裏に8町余の新溝が掘られ,水路を大島村の天田井堰の水路に結んだ。これにより天田井組の村々の用水も綾部井堰から取ることとなり,何鹿郡から天田郡へかけて350町歩の灌漑用水となった。当村は井元村として,井堰管理の中心的役割をもった。寺社に臨済宗妙心寺派青野山宝積寺,隣接して二宮神社がある。その南方に三宮神社があったが,昭和45年に二宮神社に合祀された。対岸味方村との間に舟渡しがある。明治4年綾部県を経て京都府に所属。同5年の村高614石余,戸数53(何鹿郡誌)。同22年綾部町の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7373318
最終更新日:2009-03-01




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