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- 尼崎町(近世)とは
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尼崎町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は大坂三郷北組のうち1~2丁目があるもとは丁目がなかったという(初発言上候帳面写/大阪市史5)1丁目は「今ばし通の丁,せんだんのきばしすじより西ハ淀屋ばし筋」の町で(宝暦町鑑),元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳によると家数32軒,役数45,うち無役数1.5(年寄・会所),年寄は今宮屋等甫享保9年,1丁目に大坂町人学の殿堂である懐徳堂が建てられた中井甃庵らが町人5人とともに建てた学問所で,中井竹山・中井履軒らが教鞭をとり,富永仲基・山片蟠桃らを生んだ2丁目は「よど屋ばし筋より西ハ魚棚すじ少下迄」の町で(同前),元禄13年の同帳によれば家数31軒,役数46,うち無役数2(年寄・会所),年寄は荒物屋六左衛門2丁目には準官学となった懐徳堂に対し私学の重鎮となった梅花社が,幕末篠崎小竹によりおこされた明治2年大阪東大組に所属同5年今橋1~5丁目となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」