ケータイ辞書JLogosロゴ 荒木村(近世)


京都府>宇治田原町

 江戸期〜明治22年の村名。綴喜郡宇治田原郷のうち。元和9年から禁裏御料。村高は「正保村高帳」120石余,「元禄郷帳」139石余,「享保村名帳」120石余,「天保郷帳」139石余,「旧高旧領」では120石余。山滝寺は宝亀2年興福寺の僧善珠の開基になり,焼失・再建を繰り返しながら,江戸末期には大御堂を残して廃寺となった。田原三社祭では当村大宮神社・名村御栗栖神社(一の宮)・平岡村三の宮神社の各神輿がこの大御堂に渡御し,神事を行う。このため大御堂は他に先がけて必ず再建されたという。同寺を氏寺とし,同寺境内の御霊社の別当職を世襲していた新氏は,田原三社祭の各宮座の総座頭である荒木一族座に属し一族郷士の総大将と称していたが,明和・安永頃には株数も減り,座14株中6株となっている(宇治田原町史)。寺院にはほかに浄土宗宝国寺末阿弥陀寺・同宗極楽寺末西庵・双栗寺があったが,現在は廃寺となっている。大宮神社は宝亀元年光仁天皇の勅命により岩本村双栗天神社より遷宮された由来を持ち,末社を有す。なお別伝によれば,荒木・郷之口の氏神として正安3年に伏見天皇の勅命により勧請されたという。ほかに,光仁天皇が父の施基親王に田原天皇の謚して祀った田原天皇社,建武年中石清水八幡宮より勧請した八幡社があったが,のち明治40年に大宮神社に合祀された(同前)。明治元年京都府に所属。同5年の戸数41(市町村合併史)。同6年大御堂に田原郷で最初の小学校維孝館を開校(綴喜郡誌)。「府地誌」によれば,戸数53・人数222,田4町6反余・畑9町4反余,物産は茶・渋柿・豆・蘿蔔・蕪菁などで,特に茶は神戸港へ,渋柿は伏見へ送り出した。同21年の戸数61(市町村合併史)。同22年田原村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7373499
最終更新日:2009-03-01




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